伊予 / 能島城
付属: 幸賀屋敷・宮窪城、見近城


ファイルNo2009

能島村上氏の本城

                   能島の平坦地と石積みの岸壁  

@ のしまじょう 
  別名 

A住所:今治市宮窪町
     旧:越智郡宮窪町

B目標地点:大島・能島
C形式:海城  D比高:−−m 
E現況:無人島

F遺構等:郭・石積み
G時代/人物:戦国期/村上氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  −−分

J撮影・訪問時期:2008年10月・2014年08月

  

道案内 

しまなみ街道の今治から来たら大島南インタを下り、国道317号線を大島北インタに向かいます。尾道側から来た場合は大島北インタで下り、国道317号線を左折します。1.5km先が信号で、これを左折し800m先の右手沖合いの島が能島です。先ほどの信号を右折し1.6km先が村上水軍博物館です。大島北インタから750mのところの信号の右手が幸賀屋敷で、左手の丘陵が宮窪城です。私が能島に渡った頃は特別な日か特別の依頼しないと渡れませんでしたが、最近は夏シーズンなどに定期的に渡れるようです。
 
訪城備忘録

能島に上陸しました。船着き場に広がる平坦地には建物は建っていなかったとの事です。石積みの岸壁下の砂地を掘ると長い杭の痕跡が相当数認められるようです。一段上がった西の郭には鉄を鋳造した鞴があったそうです。船溜まりにはビットの列は見当たりませんでしたが、大きなビット跡がひとつありました。海岸からの斜面は夏草に覆われていますが石積みが認められるようです。波に侵食されるため補強の石材が置かれていました。海岸の浜には陶磁器の破片などが多数転がっています。主郭は狭いものですが、やっと立ったという感動すらありましたよ^^V 主郭東西下には帯郭があります。南の段に下りて主郭を見上げると一番城らしい感じがします。東の海岸は岩場で多くのビットが確認できます。また、この東の海岸と鯛崎島の対面側岩場(南側岩場)に大穴がありますが、用途がわからないようです。南側岩場の大穴は波に浸食されそこの部分しか残っていません。能島から対岸に戻る船で島の周囲を巡りましたが、急流の川のような潮流を見ました。海面に段差が生じています。迫力満点でした。

城址碑
歴史

村上氏の出目ははっきりしないようです。河内源氏系の信濃の村上為国の弟定国が四国にわたって村上水軍の祖とするものと、源師房系村上源氏とし、源頼清が村上氏を名乗ったともされます。 南北朝に入り、村上義弘が南朝方として活躍し勢力を伸ばしました。義弘が応永三年81374年)に死去した後、信濃村上氏より師清が入ります。師清の子の義胤には男子が三人いましたが、長男の義顕が能島。、二男の顕忠が因島、三男の顕長が来島に分立しました。義顕から五代目が有名な武吉です。戦国期、来島は河野氏から後に織田氏に、因島は毛利氏に臣従しましたが、能島は毛利氏には協力はするものの臣従はせず独立性を保ちました。弘治元年(1555年)の厳島の戦い、天正四年(1575年)の第一次木津川の海戦などで活躍します。しかし、時代は天下統一に進み、天正九年(1581年に来島村上通総が織田氏に付くと翌天正十年には因島・能島の両村上氏が来島氏を攻撃し、来島通昌は豊臣氏の元へ逃れました。これ以後、秀吉は武吉に遺恨をもったとされます。天正十六年(1588年)の秀吉の海賊禁止令に違反したとして能島村上氏は能島を退去されられ筑前に移住し小早川氏の傘下に入ります。慶長二年(1597年)に小早川隆景が死去した後は毛利氏に帰参し安芸竹原に移住しました。慶長五年(1600年)、武吉の子の元吉は戦死、武吉と二男の景親は周防大島に移住し、江戸期は長州藩の船手組として続きました。

能島船着き場から鯛崎島    主郭より下の郭を見る
能島水軍博物館       村上武吉の陣羽織
鯛崎島対面側岩場   船着き場の平坦地
西の郭         西の郭から主郭方面
西の郭からの眺望
船溜まりの海岸を上から(向こうは鵜島)      ビット                
船溜まりの海岸        海岸から城跡を見上げる
主郭下帯郭
   出丸            南の郭から船着き場の平坦地を見る
東の海岸           ビット
東の海岸にある大穴          ビット      
鯛崎島(出丸)          南側岩場の大穴
島周囲の潮流
しまなみ海道から能島全景(2015年5月)
能島全景
能島全景
船溜まりの海岸
南の郭から主郭方向
潮流
潮流
   
  幸賀屋敷(村上氏居館)      宮窪城    
見近城 2008 
見近城遠望(しまなみ街道の橋げたのある島)      説明板       

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