伊予/ 来島城



ファイルNo2007

来島村上氏本拠地

        城址碑と石垣

@ くるしまじょう 
  別名  

A住所:今治市来島(来島)
B目標地点:
C形式:海城  D比高:30m 
E現況:有人島

F遺構等:郭・石垣・碑・説明板
G時代/人物:室町期/来島村上氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  港から10分
J撮影・訪問時期:2008年10月・2014年08月
           (2018年03月)

  

道案内 
←城跡   ←定期船の発着場 来島海峡潮流クルーズの発着場  

いまなみ海道今治北インタを下り、国道317号線に右折します。1.8km先の信号で右折、そのまま国道ですが細い道に入ります。100m先で左折、20m先で右折します。300m先で右折、50m先に左折、200m先で右折、50m先で左折、100m先に石造りの燈明台があり、ここが波止浜港の乗船場所で、燈明台の右手が駐車場と乗船場所があります。来島までは往復280円(2014年現在)、時間で5分で来島です。
 
訪城備忘録

今治の沖合260mにある来島が城跡です。j来島の乗船場から案内板に従い右手方向に進み、さらに頂上に向かいます。すぐに大きな城址碑と規模の大きな石垣があります。石垣は城の遺構という事ではありますが、あまりにりっぱすぎて本物かは?です。その上に村上神社ですが、神社下のところに2段程度の石垣が長く続きます。さsらに登ると右手は段郭のような段差があり、その上が主郭です。細長い郭です。 この西斜面にも石垣の痕跡が残るようですが、夏場は藪状態でとても入り込めまません。麓には居館跡があり、その奥を登ると出丸ですが、その途中にも石積みが残ります。島の北側周囲の岩場にはビットが多数残るようですが、訪れた時は満潮に近く見ることはできませんでした。 北側の岩場の斜面には石段が刻まれた箇所があります。これは潮流クルーズ船に乗ると見る事ができました。今治側海岸沿いには来島の水場が残ります。

説明板
歴史

村上氏の出目ははっきりしないようです。河内源氏系の信濃の村上為国の弟定国が四国にわたって村上水軍の祖とするものと、源師房系村上源氏とし、源頼清が村上氏を名乗ったともされます。 南北朝に入り、村上義弘が南朝方として活躍し勢力を伸ばしました。義弘が応永三年81374年)に死去した後、信濃村上氏より師清が入ります。師清の子の義胤には男子が三人いましたが、長男の義顕が能島。、二男の顕忠が因島、三男の顕長が来島に分立しました。戦国期、来島村上氏は河野氏に従い、四代の通康は河野氏の重臣として活躍、五代の通総も河野氏に従いますが、徐々に河野氏から離れ織田信長に接近し、天正十年(1582年)に河野氏から離反しました。しかし、毛利氏側の能島・因島の両村上氏に攻められ、通総は秀吉の元に逃れました。秀吉から来島と呼ばれたため、名前を来島に改名しました。天正十二年(1584年)に豊臣氏と毛利氏の正式和睦により、通総は来島に復帰し、さらに大名として取り立てられました。通総は朝鮮の役で戦死、長子の康親が継ましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に付いたため、一時改易となりましたが、慶長六年[1601年)に豊後で1万4千石で取り立てられ大名に復帰し、名前を久留嶋氏と名乗り、明治維新まで存続しました。

石垣             中腹の石垣
   主郭          海岸の岩場に刻まれた階段
  
中腹の石垣      中腹の郭
居館跡から出丸の間の石積み        海岸   
来島
来島全景        来島大橋
潮流
来島海峡SAからの眺望

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