豊前 / 長岩城



ファイルNo1742

長大な登り石垣など特異な石垣の城

                          東之台から見上げる登り石垣  

@ ながいわじょう 
  別名 

A住所:中津市耶馬渓町川原口
    旧:下毛郡耶馬溪町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:220m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・堀切・竪堀・石積櫓・碑・説明板
G時代/人物:鎌倉〜戦国期/野仲氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  県道登城口より30分(主郭まで650m)

J撮影・訪問時期:2007年07月・2016年09月
             2017年05月

  

道案内 ←登り口

国道10号線、新山国大橋の信号から国道212号線に入ります。山国川沿いに国道を進み、20Km先、耶馬溪町小友田で右折し県道2号に入ります。(行き過ぎると500m先に道の駅があります。)山国川を渡り、8Km先、川原口のバス停付近に城跡用の駐車場、説明板があります。ここから津民川へ下りていくと登城口です。 

訪城備忘録

とても一地方豪族の城とは思えないふんだんに石垣の使われた城です。ここの登り石垣の長さはすごいです。第一印象としては古代山城を再利用したのかなという印象です。ただ、九州の他の古代山城の石垣とはずいぶんに違う薄い石(信州小笠原氏の城でみるような石垣)を積み上げていますが・・・。この城は谷筋を挟んで右の山上に主郭(本丸)を中心とした郭群、左の中腹に陣屋、砲座などを配した区域、その背後の山上細尾根に石積櫓や弓型砲座などを配した細尾根の区域に分かれます。一城別郭というより、異なった機能をもった城が合体したという印象です。また、片方づつ比高は200mくらいですが、登城口から主郭(本丸)まで、650mと表示されてありました。普通、比高200mあると距離は1Km強はあるはずで、いかに急勾配かということになります。

谷筋遺構・本丸方面

さて、城跡ですが、県道の登城口から動物よけの柵やネットを外しながら(外したら当然ですが元に戻します^^V)小さな橋を渡ります。渡るとまた案内板があり、その左を斜めに登って行きます。すぐに一之城戸があります。低い石垣ですが¬状に配置され城門跡という雰囲気はあります。また、屋敷跡なのかそれの石垣も登城道に続きます。さらに5分も登らないうちに二之城戸に達します。この石垣から土塁を石垣に換えたというような感じで石垣が積んであります。この辺から谷筋を登るのですが、少しづつきつくなります。沢沿いに登るため、不ぞろいの石が多く、足元は悪い状態です。二度ほど沢の小川を渡りますが、雨降りの後など水が増水すると渡れないのかもしれません。二度目の沢の小川を渡る地点が三之城戸で谷を遮るように石垣が延びて来ています。こんな谷を遮断するように延びる石垣は見たことがありません。さらに進むと、右手に登ると主郭(本丸)方向、左手に登ると陣屋・石積櫓方向です。右手に登る始めるとすぐ右手に三の城戸から延びる登り石垣の大規模な石垣が見られます。ここから急斜面で、昔はロープ頼りでしたが、今は登城道の小道があります。登るとまた石垣が行く手に横たわります。郭下の石垣かと回り込むと、確かに東之台と呼ばれる郭に入りますが、石垣は斜面に沿って主郭(本丸)下まで延びていました。こんなの見たこと無いな。日本の城郭という気がしない。彦根城や伊予松山城の登り石垣と比べると、機能的には伊予松山城のものに似てるんかな 東之台から主郭(本丸)まで比高40mほど登るます。主郭は二段の円形で主郭下の腰郭下周囲も石垣が巡ります。ここから西之台へ向かいます。尾根上の両サイドに石垣が続きます。西之台もL字に石垣が巡っています。西之台の先は中規模の連続堀切の先に大堀切があります。この堀切は谷筋に繋がっていて、ここを下りていくと先ほどの三之城戸の所に達します。

主郭(本丸)の説明板より

弓形砲座

2016年久しぶりに訪城して見ました。今回は本来の登城口からではなく、手前の林道を(曲がる所に案内板有)登り、その途中から山中に入り、弓形砲座に行ってみました。最初は山の斜面を尾根に向かって登りますが、途中から岩山の裾を巻くように登ります。途中の鞍部には石積み意向があります。そこからさらに別の岩山の裾を登ると岩山の尾根に出ます。目指す弓形砲座は前に見えますが、絶壁の岩山で、異様です。そこから岩山の細尾根の登りを登って行きますが、両サイド絶壁の崖であり、足がすくみました。一応、杭が立てられていますが、張ってあるトラロープはあてに出来ません。体重をかけると切れるかもしれません。 この登りの細尾根を登りきると弓形砲座です。 この岩山尾根も本当に細尾根です。ここに見張り用の石垣郭ということらしいですが、異常に危険な場所にあります。この砲座から尾根先端側にも石積み、砲座があるようです。反対側尾根を登ると石積櫓側のようですが、いずれも危険過ぎて行けません。弓形砲座のみで下山します。下りる時も両サイド絶壁を下りるため恐怖です。雨模様の日や風の強い日はさらに危険です。こんな日は弓形砲座側には登らないでください。弓型砲座は制覇した満足感だけで登るという感じですね^^;

陣屋・石積み櫓

2017年超朝駆けで陣屋・石積み櫓を見てきました。三の城戸そばからさらに上流に登ります。標識に従い沢の小川を渡り登って行くと中腹が陣屋と呼ばれる区域です。谷筋斜面を遮断するように石積みが横たわっています。この両サイドの尾根上にも砲座と表記された石積みが見えますが時間の都合で遠望したのみです。陣屋はそれほど平坦な地域でもなく、陣屋の意味が?です。神社から斜面をさらに比高で60mほど登ります。説明板が設置してあり、その先の崖にアルミの梯子が設置してあります。梯子の中間は岩盤に支柱が打ち込んであるので安定してますが、上半分はロープで括ってあるので、いやにフアフアして怖いです。^^; 梯子を登りきると左手に出てすぐに右手へ進みます。曲らないでまっすぐ行くと弓形砲座ですが、尾根が崩壊していて通行止めです。 右手の細道(右手岩場の斜面、左手は岩場の崖)を少し進むと低いアルミ梯子がまたあり、これを降ります。この梯子付近から左手方向の尾根を見ると弓形砲座がわずかに見えます。梯子を降りると細尾根を少し進みますとピークがあり、ここが石積み櫓です。ほんまにトーチカのような石積みでした。往時は屋根が付いていたんじゃないかとの事です。石積み櫓の先は岩場の斜面でこちらも危ない。 ここも弓形砲座も尾根は本当に細尾根で両サイドが岩場の崖ですので風の強い日や雨模様の時、雨上げリも ぜったいに登ってはいけません。
この日でとりあえずは長岩城を完全制覇です(笑)
地元では、長岩城、平田城、一戸城を耶馬渓三城としてイベントなどをされています。

主郭(本丸)
歴史

豊前の守護の宇都宮信房の弟の重房に下毛郡野仲郷を分与し、重房は野中氏を名乗りました。建久九年(1198年)に長岩城を築城したとされます。以後、二十二代三百九十年間の居城となりました。天正十六年(1588年)に中津城に入った黒田長政は、後藤又兵衛を先陣として3500騎余りの軍勢でこの城を攻めました。城主の野中兵庫守鎮兼以下総勢1500名余りで応戦するも、敗れて自刀し、城は廃城になったと伝わります。 <現地案内板より>

@ 3500騎ちゅう事は徒士を3名程度連れているから兵力総数14000名ということかな?

A 後藤又兵衛の墓ちゅうのが耶馬溪町にあります。これは大坂の役で実は戦死せず、ふるさとに近いこの地に隠れ住み、鹿児島に逃れた豊臣秀頼が死んだ後、希望を失い切腹したという言い伝えがあるそうです。

  
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東之台               西之台
石積み櫓
弓形砲座
三の城戸から伸びる登り石垣
東の台から本丸に伸びる登り石垣
現地説明板より
登城口遠望・城域山容
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後藤又兵衛の墓
大坂の陣で討死したとされる後藤又兵衛が生き残りこの地に隠棲したと伝わります。豊臣家お再興を願っていましたが、再興はかなわずと悟り自刀したと伝わります。 大和(奈良県)の宇陀にも又兵衛の生存説があり、供養塔があるとの事で、地元の桜は又兵衛桜とも呼ばれます。

近くの城・関連の城:平田城 一戸城