備中/ 備中松山城
小松山城



ファイルNo1505

現存天守の残る山城

                    天守(奥)と五の平櫓(中央手前)   

@ こまつやまじょう 
  別名 備中松山城・松山城 

A住所:高梁市内山下
B目標地点:
C形式:山城  D比高:350m 
E現況:公園・山林

F遺構等:郭・現存天守・現存櫓・復元櫓
     ・現存土塀・石垣・碑・説明板

G時代/人物:鎌倉期〜/秋葉氏・三村氏・
       〜江戸期/水谷氏・板倉氏
H満足度: 凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓より60分・峠駐車場より15分
J撮影・訪問時期:2003年11月・2016年07月

  

道案内 ←城見橋公園  ←遊歩道登り口

備中高梁駅方面より国道180号線で北上、川端町の信号で右折し、50m先を右折し、また50m先を左折し川沿いを進みます。1.4km先が城見橋公園駐車場、そこよりシャトルバスでさらに山道を登り、1.2km先がふいご峠広場駐車場です。 そこから天守まで徒歩15〜20分です。

訪城備忘録

訪城は、ふいご峠まで自家用車乗り入れ禁止で、城見端公園からシャトルバスでふいご峠駐車場まで登ります。。峠の駐車場の南部分には下太鼓丸があり、整備されていない城郭石垣が残っていて、これはこれで趣があります。主要部に歩いて行くと大手門跡では崖に異様な感じで石垣が構築されているのは圧巻です。江戸期三大山城である備中松山城ですが、その他の高取城、岩村城とは違う地形の厳しさを感じます。二の丸・本丸は整備され、櫓が復元されており、城郭建築が楽しめます。天守は現存12天守のひとつですが、古写真を見ると、床から大木が伸びて屋根を突き抜けた形になっていて板塀も朽ち落ちたようになってました。あまりの高地であり、廃城後、解体されずに放置され廃屋状態であったようです。これを修復したのが現在の天守ということで、どこまで元の資材が使われているのかな?って考えたりもしますが・・・。 現存としては天守以外に天守後方の二重櫓と土塀があります。主要部には派手さはないですが、こじんまりとしたいい感じの建物群に整備されています。 この主要部からさらに尾根上を進むと、古城と言える大松山城に至ります。

 
大手門
歴史

延応二年(1240年)、有漢郡の地頭の秋庭三郎重信が大松山の砦を築いたのが始まりとされます。元弘年間(1331〜34年)の頃は三好氏の一族の高橋九郎左衛門宗康が入り、小松山まで城を拡張しました。永正六年(1509年)守護代上野頼久が入り、居城としたようです。天文二年(1533年)荘為資が上野氏を滅ぼしこの城に入り、大松山城・小松山城を整備したようです。元亀二年(1571年)、三村元親は毛利氏の援軍を得て、荘氏を倒し、鶴首城より移りました。毛利氏は宇喜多氏と和睦した事から三村氏は織田氏と結んだため、天正三年(1575年)に毛利氏に攻められ落城しました。三村元親は切腹し三村氏は滅亡しました。その後、毛利氏の城でしたが、慶長五年(1600年)の関が原の戦い後、徳川幕府の代官として小堀正津・政一(遠州)が入りました。元和三年(1617年)に池田長幸が入封、子の長常の時に無嗣除封となり、寛永十八年(1641年)に水谷勝隆が入封、この頃に天守・石垣郡が造営されたようです。元禄七年(1694年)に水谷氏が無嗣除封となった際、受城使には大石内蔵助良雄がなった伝わります。その後、安藤氏、石川氏と藩主が替わり、延享元年(1744年)に板倉勝澄が入り、以後、板倉氏が七代明治維新まで続きました。

現存天守
 天守より              二重櫓と天守
下太鼓の丸
大手門跡から二の丸          三の平櫓跡と土塀
土 塀                    三の丸上蕃所石垣
本丸東側
二重櫓                  天守
現地案内板より
大手門付近石垣                       三の丸土塀遠望
もっと備中松山城 2016年撮影
本丸と天守
中太鼓櫓付近石垣
大手門前
大手門から二の丸方向の断崖の石垣
足軽箱番所から
大手門付近から二の丸方向の断崖の石垣
大手門付近から二の丸方向の断崖の石垣
大手門から土塀
土塀
三の丸(上蕃所)から
左:四の平櫓/黒門付近
二の丸鉄門手前
鉄門下土塀
天守群
天守
天守
天守内部
天守狭間・窓から
本丸東側から
天守から二重櫓
二重櫓東下
二重櫓
二重櫓
二重櫓
後郭
搦め手門         水の手門付近石垣
小松山(城跡)遠望

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