播磨 姫路城



ファイルNo1527


                天守群           
@ ひめじじょう 
  別名 白鷺城
A住所:姫路市本町 
B目標地点:姫路公園 
C形式:平山城  D比高:30m 
E現況:公園・市街地 

F遺構等:天守・櫓・門など現存多数
      ・石垣・水堀 

G時代/人物:戦国期/(赤松氏)黒田氏・羽柴氏
       
江戸期/池田氏・本多氏・酒井氏〜
H満足度:
凸凸凸☆☆
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  姫路駅から徒歩20分で三の丸広場

J撮影・訪問時期:2002年11月・2003年04月
・2006年07月・2014年10月・2017年07月
・2019年02月・2022年07
月・2022年09月
・2023年08月・2024年02月・2024年09月 他

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  U <石垣・刻紋(刻印)・転用石>
道案内 ←大駐車場

山陽自動車道の山陽姫路東インタより播但連絡道で南下し姫路ジャクションから国道2号線姫路バイパスを西へ8Km先(あるいは中国自動車道福崎インタより播但連絡道で南下し25Km先が国道2号線姫路ジャンクション)の中地ランプを下り、下の信号を右折、3.5Km先の信号で右折し国道2号線に入り、1.7Km先の大手前の信号で左折した先が姫路城です。大手門前の信号の次の信号で右折し左手の大手前公園地下駐車場(有料)に車を止めるのが無難でしょうかね。

訪城備忘録

一日見てても飽きない優美な天守群・櫓群、壮大な石垣群です。三度目の訪城であった2003年は城の日(4月6日)が土日と重なり、また、桜が満開でしたので一層すてきな姫路城が見られました。この前日は夜間入城も出来、夜景の姫路城天守群を近くで見られました。この頃まではトの一の門から搦手を降りて行きトの四門まで行けましたし、腹切丸にも入れましたが、今は入れません。(特別公開はあるでしょうけど) 2014年夏、天守の平成修理が外観が終わり、白亜の天守が蘇りました。内部も含めての修理完了は2015年春に完了しました。

2019年02月、東小天守、「イ」・「ロ」・「ハ」の渡櫓、乾小天守の特別公開を見に行きました。当日はあいにくの雨模様でしたが、天守群だけの見学だけでは当然もったいないので、転用石、刻紋(刻印)、時代別の石垣をゆっくりと見学をさせていただきました。刻紋(刻印)は主要郭だけで90個くらいあるそうです。羽柴系の石垣を追ってみると、「はの門」から「にの門」に至る逆Vの通路は羽柴氏系の石垣であるため、池田氏入封以前からこの形であったことがわかります。また、天守の位置も石垣から現天守の位置に羽柴氏の天守もあったと言われます。二の丸の石垣は羽柴氏系石垣と池田氏系石垣が入り混じった箇所があり、修復等で入り混じったようです。三国堀の算木積みが双方からあるように見える箇所は明治以降の修復で羽柴氏時代の空堀がわかるように修復したものだそうです。

2022年07月 特別公開もあったんで行ってみました。2019年02月の公開場所と同じです。前回は雨模様もあったので写真の撮り直しも含めての訪城です。夏場で姫路城を含めこの日は18km強を歩いてさすがにくたびれましたわ。^^;(笑) 備前門が修復中で足場が組まれていて遠景写真が撮りにくい・・・。(笑) 
2022年09月、有料地域には入らずに前回行けなかった中堀中心に見てきました。

2023年08月 夏の特別公開にまた行ってみました。世界遺産登録30周年という事で、今回は2019年、2022年の公開に加え、修復された折廻櫓が14年ぶりに公開され、初めて入りました。ここの窓には筬格子(おさこうし)と呼ばれる細い金属で組まれた格子が取り付けてあります。これは姫路城のでも珍しいものです。また、櫓でありながら畳敷きで炉まできられています。完全に居室ですが、北側には狭間が並んでしてへの門からトの一の門へ抜ける敵を狙えるようになっています。この折廻櫓、備前丸側から見ると二階建てですが、ヘの門、トの門側から見るとやや高さの石垣の上の平櫓のように見えます。また、折廻櫓からはそのままL字で備前門の二階に繋がっています。折廻櫓の二階から備前門の二階へ入れました。

2024年02月 冬の特別公開は西小天守・「二」の渡櫓が初めての公開でした。二ノ渡櫓は中には入れませんでしたが、入口から見ることができました。

2024年09月 秋の特別公開はトの一門からトの四門までの搦め手道でした。この道、2003年以来だなあ。前回はトの二門のところで人が入ったんで使えなかった写真でしたが、今回はバッチリ収めました。(笑) Sの字の坂道をゆっくり下りると、L字の石垣に継ぎ目が見え、秀吉時代から輝政時代の増築部分の繋ぎのようです。 今回は有料地区に入り、久しぶりに西の丸の渡櫓・百軒櫓内部には行きましたが、大天守はパスしました。それでも9月中旬と言うのに暑くて汗だくでした。
六葉釘隠し        星形の埋木(大天守最上階)
               (五芒星らしい) 
             他に形状違いで四か所ある
歴史
城址碑



元弘三年(1333年)に赤松則村(円心)が砦を築いて、正平元年(1346年)に則村の次男の赤松貞範が築城したとされ、その後、貞範が庄山城を築き移ったのちは小寺氏が守ったとされていましたが、この説は現在は否定されているようで、天文十四年(1545年)に黒田重隆が築城したとされます。重隆−職隆−孝高と続き、黒田孝高(官兵衛)は織田氏に付き、対毛利攻めの総大将の羽柴秀吉に従い、天正八年(1580年)に孝高は姫路城を秀吉に献上し、天正九年(1581年)には秀吉が姫路城を改修し、三層の天守を築いたとされます。天正十三年(1583年)に秀吉が大坂城を築いて移ると、弟の羽柴秀長、義兄の木下家定が居城し、慶長五年(1600年)の関が原の戦い後に、三河吉田城主の池田輝政が五十二万石にて入城しました。輝政は城を大改修し、慶長十四年(1609年)に五層の大天守が完成しました。現在の姫山(天守群側)の縄張りはこの時整ったとされます。元和三年(1617年)に輝政の孫の光政は因幡鳥取に移封となり、本多忠政が伊勢桑名城より入りました。忠政の子の忠刻に千姫が輿入れし、西の丸が改修されて化粧櫓などが築かれました。本多氏三代以後、松平氏や榊原氏などが2代程度で頻繁に城主を交代しました。寛延二年(1749年)に上野前橋城より酒井忠恭が入り、以後明治維新まで酒井氏の居城となりました。

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  U <石垣・刻紋(刻印)・転用石>

「は」の門      水一門と油壁
三の丸広場からの天守群
  
チの櫓  黒田氏時代(とされる)の石垣
現地案内板より
城域全景遠望 2003年4月
二の丸の石垣
三国堀からの天守群
西小天守と大天守(備前丸から)
ぬの門前の扇の勾配高石垣
北側より天守群
天守群北面
  
天守群の夜景 2003年4月
三国堀からの天守群遠望       化粧櫓下より二の丸越に天守群
天守群
菱の門前より天守群
西の丸より天守群
喜斎門そばから天守群
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  U <石垣・刻紋(刻印)・転用石>  


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