伊予/ | 松山城 |
ファイルNo1486 |
現存12天守のひとつ
@ まつやまじょう |
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【道案内】 ←ロープウェイ近くの有料駐車場の位置 松山自動車道松山インタを下り、国道33号線に左折して松山市内中心部に向かいます。3Km先の天山の信号で国道は右折です。1.2Km先の小坂の信号で左折し国道11号線(伊予バイパス)に入ります。2.4Km先の勝山の信号で左折します。600m先の一番町の信号で右折しロープウェイ乗り場に向かいます。この周辺の有料駐車場に車を止めます。この周囲は一方通行ですから気をつけてください。ロープウェイで登るか、あるいは、ロープウェイ乗り場横の東雲口(しののめぐち)から東雲神社経由で登ります。二の丸・三の丸は県庁前の信号で国道は左折しますが、この交差点を右折し、山すそを少し走ると右手に十数台分の駐車場があり、この右手高台が二の丸です。この二の丸駐車場は無料です。 二の丸横から登り石垣沿いに登れます。さらに古町口(三の丸の北側)からも登れます。 【現況・訪城備忘録】 2006.05 残念ながら行った時は天守の屋根の修復工事中で、天守の外観は見ることが出来ませんでしたが、山上の本丸部分の壮大な石垣群、復元された櫓や門を見ながら天守に進みますとワクワクして来ます。ロープウェイから少し歩くと本丸石垣下に至ります。巽櫓(復元)が高い石垣の上に見えます。ここから いくつかの門、折り返しの道、左折れ、右折れを繰り返しながら本丸に進みます。これらは城の堅固さを実感するとともに、折り重なって見える石垣の造形美を感じます。揚木戸門跡ー大手門跡ー戸無門(重文)−筒井門(復元)−<隠門>−太鼓門を経て、太鼓櫓(復元)のところまで来ますと本丸で正面に天守群が見えてきます。天守群は天守のみ覆いがかけられていましたが、小天守・櫓を連ねた連立式の天守群はなかなかの迫力です。搦め手側の乾門の外側から見る天守群もなかなかでした。搦め手口乾一の門石垣の南側斜面に二の丸からの登り石垣の上部の石垣があります。登り石垣は彦根城など全国でもあまり多く例が無いもので、すべて見たかったのですが今回は時間無く断念でした。麓に降りて県庁側に廻ると高台に二の丸があり二の丸御殿跡が整備されています。 2007.03/ 仕事で通ったため、麓から修復なった天守群を写真に撮りました。 2008.02/ 三度目の正直で天守を間近で見てきました。修復後であり、板塀は黒々として風格がありました。二の丸の登り石垣も見てきましたが、これは万里の長城の小型版のようで、なかなかのものでした。 2016.03/仕事でまた行きました。 二の丸庭園公園と登り石垣沿いを少し歩いてみました。 2017.06/金曜日に泊りになったんで土曜日の朝の7時くらいから東雲口から登りました。 【歴史】 慶長七年(1602年)に加藤嘉明が伊予半国二十万石の居城として築城しました。嘉明は寛永四年(1627年)に会津四十万石に移封となり、代わって、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が出羽より二十四万石で入封しました。しかしながら、寛永十一年(1634年)に忠知が死去し蒲生家は無嗣断絶しました。寛永十二年(1635年)に松平(久松)定行が十五万石で入り、松平氏が明治維新まで続きます。天守は加藤嘉明の築城時は五層であったようですが、松平定行は三層に改築したと伝わります。この天守は天明四年(1784年)に落雷で焼失し、長らく天守は再建されませんでしたが、嘉永五年(1852年)に再建され、現存の天守はこの時のものです。 |
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2008年2月 |
2016年03月 |
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