丹後/ 宮津城



ファイルNo1963


               現存太鼓門(移築修復後)  

@ みやづじょう 
  別名 

A住所:宮津市鶴賀〜柳縄手(宮津市役所)
B目標地点:宮津市役所・宮津小学校
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:市街地

F遺構等:現存門・石垣の石・説明板
G時代/人物:戦国期/細川氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分
J撮影・訪問時期:2008年09月・2023年07月.
 2024年07月・08月
(2018年05月・2022年09月)

  

道案内 

京都縦貫自動車道の宮津天橋立インタで下り、府道9号線を宮津中心地に向かいます。4km先の信号が国道178号線ですが、その200m手前の信号を右折します。200m先の右手が宮津市役所で、大手川側、大手橋の袂に案内板が設置してあります。城跡は大手川の向こう側、宮津駅までの一帯が中核部です。

訪城備忘録

本丸、二の丸、三の丸ともに市街地になってしまい遺構は無いようです。大手橋から大手川沿いに歩いて国道側に行く途中に三の丸の説明板があります。国道を右手に少し歩いていくと国道沿いに本丸の鉄門の袖石垣のひとつが置いてあります。

宮津小学校の正門に太鼓門が移築整備されています。現在は小学校の正門として整備されてますが、2008年には訪城した時には小学校の東側一方通行の細い道沿いに朽ちかけた感じで建ってましたが、今はりっぱに修復整備されました。

さらに、江戸期の家臣屋敷として市役所の裏手(南側)に武家屋敷<旧大村邸(大手ふれあい公園)>の長屋門のみが現存しています。なお、袖石の説明板にこれの説明板の10m南に本丸石垣が残っているらしく、さらに、地表には出ていませんが、地下には石垣遺構が埋没しているようです。国道沿い宮津警察署の反対側(海側)に「たもの木」が1本ありますが、この木は宮津城があった時代からここにある木だそうです。ここから少し離れた国道沿いに小さな社、「菊姫稲荷」があります。藩主青山氏が関わる「番町皿屋敷」や「播州皿屋敷」は、この宮津藩主時代の青山氏に関わる事件が原型でないかとの事。さて??

三の丸外側、現在の大膳川は堀跡と言われます。与謝野町後野の愛宕神社に宮津城の本丸御殿の玄関を移築したものと伝わります。神社の拝殿として利用されてますが、京極氏の家紋「四ツ目紋」が大きく上がってます。 この愛宕神社、鳥居からめっこうな石段を登ります。境内は小城の雰囲気です。

大手川は護岸工事で城壁風に改修されました。宮津市役所の裏手、大手側ふれあい公園(旧大村邸)にガラシャの像があります。蛇足ですが、宮津インター近くの盛林寺には「光秀の首塚」と言われる供養塔があります。 「光秀の首塚」、京都市内、亀岡市にもありますが、ここはガラシャ夫人の関係であるんでしょうねぇ。

市役所前の案内板
歴史

天正八年(1580年)に細川藤孝・忠興が丹後十一万石で入り、築城したと伝わります。天正十年(1582年)の本能寺の変の後は藤孝(幽斎)は田辺城に隠居し、宮津城は忠興が居城しました。慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは忠興は東軍の中におり、幽斎は宮津城を焼き、田辺城に籠城しました。戦い後、細川氏は豊前三十九万石に転封、京極高知が丹後十二万三千石で入り、最初は舞鶴を居城としましたが宮津城を改修して移りました。その後、丹後を宮津、田辺、峰山に三分割し、宮津藩は京極高広が継ぎ、さらに改修しました。しかし、二代藩主高国の時に改易されます。以後、永井氏・阿部氏・奥平氏・青山氏と城主が代わりますが、宝暦七年(1758年)に浜松から(本庄)松平資昌が七万七千石で入封し、7代が受け継ぎ、明治維新まで続きました。

国道176号線沿いの二の丸位置にある城石(袖石)     三の丸案内板     
現地案内板より      現存旧大村邸長屋門
現存太鼓門(修復前 2008年当時)
現存太鼓門(移築修復後の現在の姿)
大手川(市役所横)
大手側の石積み(復元)
大手川(城壁風) <向こうは宮津小・移築門の屋根だけ見える>
大手ふれあい公園
細川ガラシャ像
大膳川(堀跡)
たもの木     菊姫稲荷
宮津城移築建物<宮津城本丸御殿玄関>
愛宕神社の石段の中間から
移築建物全景(本丸御殿玄関)
京極氏の「四ツ目紋」が目立ちます。
拝殿内
光秀の首塚  宮津湾
明智光秀首塚  宮津市喜多 盛林寺 202307
夕方の宮津湾

近くの城・関連の城:田辺城 味土野女城(ガラシャ隠棲地)