丹後 / 宮津城



ファイルNo1963


               現存太鼓門  

@ みやづじょう 
  別名 

A住所:宮津市鶴賀〜柳縄手(宮津市役所)
B目標地点:宮津市役所・宮津小学校
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:市街地

F遺構等:現存門・説明板
G時代/人物:戦国期/細川氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2008年09月・2018年05月

  

道案内 ←現存門の位置(一方通行ですから進入には注意)

京都縦貫自動車道の宮津天橋立インタで下り、府道9号線を宮津中心地に向かいます。4km先の信号が国道178号線ですが、その200m手前の信号を右折します。200m先の右手が宮津市役所で、大手川側、大手橋の袂に案内板が設置してあります。城跡は大手川の向こう側、宮津駅までの一帯が中核部です。

訪城備忘録

本丸、二の丸、三の丸ともに市街地になってしまい遺構は無いようです。大手橋から川沿いに歩いて国道側に行く途中に三の丸の説明板があります。国道を右手に少し歩いていくと国道沿いに本丸の鉄門の袖石垣のひとつが置いてあります。また、宮津小学校の東側一方通行路の路地側に太鼓門が現存しています。さらに、江戸期の家臣屋敷として市役所の裏手(南側)に大村邸の長屋門のみが現存しています。なお、袖石の説明板にこれの説明板の10m南に本丸石垣が残っているらしく、さらに、地表には出ていませんが、地下には石垣遺構が埋没しているようです。あるいは、宮津駅付近に本丸の説明板が設置してあったようですが、双方とも見落としました。大手川は護岸工事中で、ここの岸は他の方のHPを見ると城の石垣風でしたが、どういう風になるんでしょ。ただ、大手川は岸の高さがあまりない川で豪雨になると氾濫しそうだな。遺構も大切だけど、今の市民の暮らしも大切だよね。

市役所前の案内板
歴史

天正八年(1580年)に細川藤孝・忠興が丹後十一万石で入り、築城したと伝わります。天正十年(1582年)の本能寺の変の後は藤孝(幽斎)は田辺城に隠居し、宮津城は忠興が居城しました。慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは忠興は東軍の中におり、幽斎は宮津城を焼き、田辺城に籠城しました。戦い後、細川氏は豊前三十九万石に転封、京極高知が丹後十二万三千石で入り、最初は舞鶴を居城としましたが宮津城を改修して移りました。その後、丹後を宮津、田辺、峰山に三分割し、宮津藩は京極高広が継ぎ、さらに改修しました。しかし、二代藩主高国の時に改易されます。以後、永井氏・阿部氏・奥平氏・青山氏と城主が代わりますが、宝暦七年(1758年)に浜松から(本庄)松平資昌が七万七千石で入封し、7代が受け継ぎ、明治維新まで続きました。

国道176号線沿いの二の丸位置にある城石(袖石)            三の丸案内板     
現地案内板より                   現存大村邸長屋門
  

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