丹後 / 田辺城



ファイルNo1961


              復興大手門    

@ たなべじょう 
  別名 舞鶴城 

A住所:舞鶴市南田辺
B目標地点:舞鶴公園
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・市街地

F遺構等:郭・石垣・堀・復興門・復興櫓・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/細川氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2008年09月・2017年05月

  

道案内 

舞鶴若狭自動車道の舞鶴西インタでおり、信号を左折し府道27号線に入ります。堀トンネルを抜け、国道27号線のジャンクションを舞鶴当面に向かいます。5km先、大手千日前の信号で右折し、府道28号線に入り、100m先の信号で左折した先の右手が舞鶴公園(城跡)です。公園を越えた先に市営の有料駐車場があります。
 
訪城備忘録

本丸が舞鶴公園さらていて、石垣が残るとともに、JRとの境に堀の一部が残っています。大手門、二重櫓、天守台などが復興再建されています。 細川藤孝(幽斎)が関ヶ原の役の際に籠城した事は有名ですが、現在の城の姿は江戸期のものであり、その面影はないですね。

2017年夕方に再訪しました。 田辺城の西側に見える高い山、愛宕山城に登りたかったんですが断念です。愛宕山の上を飛行機が飛んで行ったんですが、飛行機雲がやけに短く、流星のようでした。

城址碑
歴史

天正六年(1578年)に織田信長よりの命で丹後を制圧した細川藤孝は信長より丹後十一万石を与えら、最初は宮津に入りましたが、天正八年(1580年)から田辺城の築城を開始し、天正十年には完成したものと伝わります。天正十年(1582年)の本能寺の変の後は藤孝(幽斎)は田辺城に隠居し、宮津城は忠興が居城しました。慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは忠興は東軍の中におり、幽斎は宮津城を焼き、田辺城に籠城し西軍一万五千を迎え撃ちました。戦い後、細川氏は豊前三十九万石に転封となり、京極高知が丹後十二万三千石で入り、最初は舞鶴を居城としましたが、宮津城を改修して移り、この時、田辺城は廃城となり破城されました。その後、丹後を宮津、田辺、峰山に三分割し、田辺には次男の高三が三万五千石で領しました。この時に田辺城は再興されました。寛文八年(1668年)三代の高盛は豊岡に転封となり、かわって牧野親成が入り、牧野氏が明治維新まで続きました。

復興二重櫓      復興天守台
大手門(内側から)       内堀と石垣
石垣
 復興大手門                     建部山(城)遠望
  
現地案内板より     藩校明倫館の門
愛宕山(城) 上を飛行機が飛んでますが流星のようですね。

近くの城・関連の城:宮津城

          

海上自衛隊舞鶴 2019/03 
護衛艦ひゅうが
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護衛艦 みょうこう(175) あたご(177)