道案内 |
国道462号線弥栄町黒部の信号で府道654号線に入ります。約5km先で府道75号線に合流します。約3.5km先の弥栄町野中地区で小さな橋を渡り府道57号線(府道75号線併用)に入ります。その周辺にガラシャ隠棲地の方向標識がいくつかあります。橋を渡るとすぐに左手に進み、200m先の野間郵便局前の先で道はカーブします。約800m先で府道57号線は右手、府道75号線は直進で、直進します。約4km先で標識には左折が橋を渡り府道75号線と書かれたダート道があり、直進は府道655号線でここを直進です。<標識に「味土野」という標識があります> 1.6km先で道は左カーブで橋を渡ります。ここから約400m登り道を行くと左手が城跡です。山の中の府道75号線との分岐点から特に道は細く、アスファルト道ですが乗用車1台の幅しかありません。また、府道57号線との分岐点から「ガラシャ隠棲地」の案内標識はありませんので、やや不安になりますが、府道655号線に向かって進んでください。
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訪城備忘録 |
非常に山深いところにガラシャの隠棲地はありました。集落名は「味土野」ですが、元々は「御殿」と書いたようです。昔はそれでも周囲にそれなりの集落があったんでしょうが、今は数軒という感じです。分校まであったようですが、今は「ガラシャ荘」の看板がかかり、研修施設か何かのようです。ガラシャ隠棲地の女城から谷を挟んで反対側の尾根に男城があります。ここはガラシャを警備するための人員がいたようです。それにしても、この地まで隠さないとガラシャを守ることができなかったということでしょうかねぇ。
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城跡標識
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天正十年(1582年)、ガラシャ(玉、玉子)の父、明智光秀が本能寺にて織田信長を討ちました。光秀は、細川藤孝、藤孝の子でガラシャの夫の忠興に味方に付くように誘ったが、これを拒否し、忠興はガラシャと離縁しこの地に幽閉しました。天正十二年、羽柴秀吉がとりなして幽閉を解かれ忠興と復縁しました。
その後、キリスト教の入信し「ガラシャ」の洗礼名を受けました。慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いの前に石田三成は大名衆の家族を人質として大坂城に入れようとしましたが、ガラシャは拒否し家臣に胸を突かれ自害しました。辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」
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