丹波/ | 須知城 |
ファイルNo1779 |
@ しゅうちじょう |
道案内 ←城跡 ←登り口 | |||
京都縦貫自動車道丹波インターで下り、国道9号線の信号で右折します。すぐの80m先の信号で右折し琴滝方面に向かいます。道なりに400m先で右折し縦貫道のガードをくぐります。すぐに直進と左折の道になり、左折し(せせらぎの小径と案内板があります。)200m先市森集落に入ります。(防火槽のところの空き地に駐車し、) 道が左右にわかれていますので、右手に進みます。集落裏手に登り口があります。登り口には標識もあり、ここからひたすら登ります。西の尾根から西の郭に入ります。 なお、琴滝の滝壺そばからも登城道があります。ここから行くと東の郭群へ到達します。 |
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訪城備忘録 | |||
丹波の山城はどこもきついなぁ^^; でも、思った以上に遺構が残ってるんでうれしいです。^^V さて、須知城ですが、遺構は良好で満足します。市森の集落の背後の登城口から尾根をひたすら登って城域に入ります。 幅は30m以上の細長い西の郭から入りました。この辺は寺跡らしく削平もしっかりして大変広い郭です。100mほど進むと2mほどの切岸を越えると郭の崎に高さ1mほどの石垣が15mほど横たわっています。この右端に虎口があり両サイド石垣が残っています。どこまで寺時代の石積みかはありますが、主郭の東斜面の石垣の積み方とは違います。この辺が二の郭にあたるのでしょう。この先にさらに一段高く主郭が有ります。 主郭内は2021年時点では相当に整備されました。高い土塁がニ方にあり、幅も分厚く櫓台であったようです。主郭の先は5mほど落ち込んでおり、主郭斜面の三方は石垣が残っています。なかなか良好な状態で石垣は残っていて、登ってきた甲斐があったちゅうもんです^^V この石垣は角が90度ではなく、120度とかもっと広い角度で「しのぎ積み」と言われます。算木積みの前の古い積み方と言われます。 その先は堀切を越え、段郭が続きます。途中の段郭には、三方を土塁で囲んだ郭もあります。この区域は主郭周辺に比べ、郭も小さく、斜面に段郭になっていて城としては古さを感じます。斜面に若干の石積み痕跡もありますが、主郭のものとは全く違う石も小さい小規模なものです。 周山城ほどではないにしても、石垣の残存度はなかなかのもので、連郭式の城ながら腰郭からの虎口など新しい技法も感じる期待以上の城でした。なお、近くにある琴滝は滝の音が琴の音に聞こえることがあるかららしいですが、行った時は渇水してました^^;。また、玉雲寺は須知城を明智光秀が攻撃の際に兵火で焼失したものを光秀が寄進し再建したものだそうです。 2017年04月に再訪しました。 時期もあるでしょうけど、整備は少しされ、木々は間伐されているようで、遺構が見やすくなってました。 2021年11月に再訪しました。 登城道の整備は進んでロープ設置もされてますし、城域も整備されてました。しかし、やっぱ、登りがきつい・・・^^; |
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須知氏は鎌倉幕府倒幕の際、足利尊氏に従ったようです。しかし、南北朝には南朝系であったようで、北朝に攻められ一時没落したようです。しかし、戦国期に入り、盛り返し、麓の玉雲寺の縁記には、玉雲寺は、須知出羽守慶吉の援請にて、応永二十三年(1416年)に開山されたと書かれてました。天正元年(1573年)の織田信長の丹波攻略では、明智光秀に協力的であったようです。しかし、須田元秀が八上城の攻防で負傷して死亡し、その後、天正四年(1576年)頃に城は明智氏のものであったようで、天正初期に織田氏から離反して明智光秀に攻められ落城したようです。その後、明智氏の手で今の遺構のような城に改修されたようです。廃城は天正十年(1582年)、本能寺の変後ではないでしょうか。 |
2007年訪城写真 |
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