越中の城008/  

                                                                               

蜷川館  1534
土塁?

最勝寺山門
A富山市蜷川  B最勝寺 C平城

北陸自動車道富山インタを下り、国道41号線を高山方面に進みます。600m先、蜷川の信号を右折し100m先を左折しクランク状に道なりで200m進んだところが最勝寺で、ここが城跡です。本堂背後に土塁の痕跡のような盛り上りがありますが、遺構であるのかは?です。

F遺構等:郭・土塁?・類似説明板 
G戦国期/蜷川氏  H満足度;凸+

鎌倉時代の地頭蜷川氏の居館とされます。宮道親直が源頼朝に従い戦功でこの地の地頭となり蜷川氏を称したとされます。なお、一休和尚は蜷川親右衛門親当と言い、蜷川氏の一族だったようです。

K丹波蜷川城
J訪城:2006/08
  
上熊野城  1535
説明板・後方に土塁
城域の浄蓮寺

A富山市上熊野  
B神明神社・浄蓮寺 C平城

北陸自動車道富山インタを下り、国道41号線を高山方面に進みます。2.1Km先の下熊野南の信号を左折し県道68号線に入ります。900m先の悪王寺の信号を右折し県道188号線に入ります。900m先右手が神明神社・浄蓮寺でこの一帯が城跡です。神社に説明板があり、本殿裏手に土塁の痕跡が残り、その外側の水田は堀跡と考えられます。

F遺構等:土塁・堀・説明板  
G南北期/二宮氏 
H満足度;凸+

二宮氏は南北朝にここに住した二宮兵庫之介から出て、戦国時代には二宮左衛門大夫が居城したと伝えられています。越中守護代神保長職に仕えましたが、元亀二年(1571年)には上杉方の武将村田弥三郎・安達清蔵の拠る東福沢の津毛城を攻めて敗れたと伝えられています。天正二年(1574年)には上杉方に属しました。しかし、謙信の急死後の天正六年(1578年)に織田信長方の武将神保長住の越中進攻の際には織田方に属すなど、知行地の安堵を得るために策をめぐらせました。(現地説明板より)

J訪城:2002/08
   
小見城  1536 
城跡遠景
A富山市(大山町)小見
 旧:中新川郡大山町  
B亀谷温泉手前神明神社横より 
C山城

北陸高速自動車道の立山インタを下り、県道3号線を南に進みます。900m先で県道3号線は大きく右にカーブし、その先の信号で左折し県道6号線に入ります。立山黒部アルペンルートの立山駅に向かって行き20Km先、芳見橋の信号で右折し橋を渡ります。その先で左折しすぐの小見の信号で右折し亀谷温泉に向かいます。1Km先の亀谷集落で左手に神明神社があり、この脇から林道があり八合目ぐらいまで登れるようです。この山頂が城跡です。軽装で行ったので登りませんでした。まして、近くの大山歴史民俗資料館に「昨夕にこの近くで熊がでましたので、ご注意ください。」の張り紙がしてあり、これでもう完全NGでした。

F遺構等:(郭・土塁・堀・土橋) 
G戦国期/江馬氏?  
H満足度;途中断念

飛騨の江馬氏(輝盛)が越中侵攻の拠点として築いた中地山城の支城とされます。永禄期に江馬氏の家臣の河上中務丞(伊豆守忠輔)が中地山城と同様に在城したとされます。

J訪城:2006/08