丹波 | 蜷川城 (蟠根寺城) |
ファイルNo2873 |
@ にながわじょう |
道案内 ←城跡 ←登り口(蟠根寺) | |||
京都縦貫自動車道の園部インタを下り、左折して、府道19号線に入ります。2.1Km先の船坂の信号を右折し府道25号線に入ります。4km先右手の橋(川辺大橋)で桂川を渡ります。450m、高屋公民館の手前で右折し、400m先の左手が春日神社で、神社手前を左折し300mほど行った右手上が蟠根寺です。道はそのまま続きますが、林道にはフェンスがあります。このフェンスを入ってすぐに右手の平坦地に入り、右手の高みへ登ります。ちょうど寺の背後になります。ここから尾根を登っていきます。 園部の道の駅側から曽我谷集落の一原神社から反対側の高屋集落の春日神社まで林道がありますが、双方ともフェンスがあります。このフェンスは自由に開けて入ってよいとは書いてあります。春日神社、蟠根寺側フェンスから入ってすぐから登った方が無難です。 また、春日神社側から1kmほど林道を進むと大きな切通しとのころから急崖を登ると尾根に至り、ここを北に向かって尾根を進めば主郭に至る事もできます。この急崖は5mほどあり、ちょっとしんどいですが・・・。尾根に上がって尾根上を進みますが、この辺にも平坦地や堀状の地形があり、まさか遺構では無いとは思いますが・・・。 |
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訪城備忘録 | |||
蟠根寺の裏手から支尾根を西に登って行き、南北の尾根に到達したら右側<北>に登って行きます。尾根上には昔の道でしょうか?、塹壕のような竪堀状のくぼみが続きます。また、城域が近付くと、尾根を切断するように今は浅いですが、堀切状の箇所が何箇所かありますが、遺構かどうかは判断できません。とにかく、荒れるにまかせている里山で、戦国末期まで存在したとは思えない遺構の不明瞭さです。ただ、南北の尾根上はどこまでが城域なのかいまいちはっきりしない地形で林道の所まで平坦地があったり、堀切状、空堀状の地形があったりします。その中で、主郭は東に寄って一段高い長細い土壇があり、三角点の石柱がありました。主郭西側下の郭は主郭からこの郭までの登り土塁と郭を巡る低い土塁が城らしさを漂います。また、主郭北側下には段郭らしき地形で、あきらかに切岸というところもあります。主郭西下郭のさらに下に下りた尾根には小さな堀切状、土橋状の地形がありました。全体的には荒れた雑木林で、本当にどこまでが遺構なのか私にはわかりにくい城跡でした。 |
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蜷川氏は物部氏の系統の宮道氏であり、源頼朝に従い、越中蜷川庄を賜り、宮道親直が蜷川氏を称したとされます。鎌倉期の蜷川氏の動静ははっきりしないようですが、室町期に入り、政所執事の伊勢氏に従い、南北朝後に、蜷川親心の子の親朝が丹波に蜷川城を築いたとされます。蜷川親当より政所代であったようです。戦国期に入り、永禄八年(1565年)に足利義輝が三好三人衆・松永久秀で殺害されると、蜷川親世は出羽に落ち延び、そこで亡くなり、子の親長は長宗我部氏を頼って土佐に逃れ、この一族が徳川期には旗本として存続します。一方、蜷川城は蜷川貞周が在城し、明智光秀の丹波攻略後は明智氏に従いましたが、山崎の合戦で討ち死にします。 城は子の頃に廃城ではないかと推測されます。 一休さんに出てくる蜷川新左衛門は蜷川氏の当主が代々新左衛門を名乗ることもあり、親当がモデルではないかと言われています。 |
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