越中 / | 海老瀬城 |
ファイルNo1538 |
桝形虎口・屈曲した堀の残る陣城
@ えびせじょう |
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【道案内】 高岡市内の国道8号線四屋高架より国道160号線に入り氷見市内に向かいます。16Km先(氷見市中心部を過ぎます)の阿尾の信号左折し県道18号線を約1.6Km進み、指崎公民館を越えてところで、左折します。600m先を右折し、800m先左手が氷見あいやまガーデンです。そこまで二車線の舗装道路ですが、その先からは一車線の林道になります。 300m崎右手に塹壕のような道があり、そこを入ります。 または、高岡市内の国道8号線四屋高架から国道160号線に入り氷見市方面に向かいます。四屋から15Km先(氷見市中心部を過ぎます)の稲積の信号で左折し県道304号線に入ります。1.8Km先の余川の信号で右折し氷見広域スーパー農道に入り森寺トンネル側に進みます。余川の信号から600m先で左折し、さらに300m先(興聖寺の手前)で右折し林道を登ります。1Kmほど林道を登ると尾根の林道に出ますので右折し尾根上を右手方向に進みます。この道は義仲道という古道のようです。森寺トンネルの上を越えた先の左手ピークが城跡です。トンネルの上を越えると道は大きく右にカーブしさらに左にカーブとなります。その先の右手が広くなって斜面側に柵のある箇所があります。この左手奥の小高いところ城跡です。この地点から林道をさらに100m進むと左手に塹壕の道があります。その先が氷見あいやまカーデンです。 【訪城備忘録】 2015年、城跡が整備(草刈り)されているという情報があり、再訪しました。塹壕から200mほど入ったところから左手に上がると、笹藪の真ん中に道ができていて、城域前は綺麗に草刈りされていました。 主要部の前面は削平があまいですが、広大な平地になっていて、兵站基地のようです。主要部は二重虎口、切岸、土塁がはっきりと確認できるほどに整備されていました。これは近くの施設開設にともなう付帯的なものでされたんだろうか? 見違えるように遺構が明瞭に見学できます。 下記は以前の記述です。 2006年8月に途中断念したのですが、結局その時に歩いた場所が城跡でした。あいもかわらす草木が伸びた藪状態ですので、遺構をはっきり見られるのは3月頃しかないのかもしれません。尾根筋の林道を走ると林道と直角に山に入る塹壕のような道があり、(近くに作業小屋があります)そこに入って行きます。200mほど進んで赤テープが木から垂れ下がっている箇所で左手の方に進むと平坦地があり、さらに藪状態ですが一段高いところにも平坦地になっている場所があります。この辺は城跡の東側の郭と思われます。草薮でほとんどわかりませんが、草を掻き分けると堀と思われる窪みが確認できますし、喰い違いの土塁でなった虎口形状も認められます。この辺は北側の主郭から見ると、第二郭の東側の虎口位置のようです。これから第二郭内へは藪状態で進めませんでした。これだけでは満足できないので、林道にいったん戻り、駐車位置から再度入ってみました。50mほど緩斜面があり、その先が10mほど上に登ります。こちらからも当然藪状態でしたが、斜面端は比較的草が少ないので、第三郭と第四郭の間の堀・土塁、第三郭と第二郭の間の屈曲した堀が確認できました。いずれも草木に埋もれていましたが・・・。どうしても主郭までは入れませんでした。また、薄いですが、第四郭と第三郭の境目から斜面に落ちる竪堀も確認できました。草木が伸び、藪状態という事でありますが、土塁は低く、堀は狭く浅いこともあって、遺構のパーツが確認しにくいのです。しかしながら、食い違い虎口、桝形虎口、屈曲した堀など発達した縄張りです。織豊期の縄張りで、近江の井元城を思わせます。陣城ということなんでしょうが、この丁寧さは資料では前田氏系の陣城とされますが、佐々氏の几帳面さを感じますが、違うでしょうかね? なお、集落内の興聖寺側に左折したところを右折した先の集落を田地と呼びますが、この田地は館の事のようでこの背後の山のピークが城跡です。 【歴史】 築城時期などは定かではないようで、長沢善慶が在城したと伝わるとともに、天正十三年(1585年)に前田利家に従った菊池武勝が一時在城したとも伝わるようです。この時は佐々方の森寺城に対する前田氏方の付け城の役割と考えられます。 |
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近くの城・関連の城:森寺城
2007年写真 |