越中 / | 大田本郷城 ・浮田家住宅 |
ファイルNo0012 |
@ おおたほんごうじょう |
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【道案内】 富山市中心部より「高原町・山室地区」に向かいます。県道174号線で山室中学校を過ぎ1Kmほどの大田の信号で右折します。(浮田家の標識が出ています) 100mほどで浮田家側に右折し、浮田家表門を通り過ぎて100mほどの路地交差点角に城址碑があります。 【現況・訪城記録】 付近は耕地整理もされており、遺構的なものはありません。近くの浮田家は江戸期の建物です。これは誰かに聞いたか本で読んだのか覚えていないのですが、「浮田家」は、加賀前田家が豪姫の夫であった宇喜多秀家が八丈島に流された以降に、食料などの物資を八丈島に送るための経由として利用されたと聞いたことがあるのですが、浮田家説明板にはそれらしき事は書かれてありません。浮田と宇喜多・・・名前だけかなぁ^^; 【歴史】 ≪大田本郷城≫ 上杉謙信の武将の河田長親が一向一揆に備え、元亀三年(1572年)ここに陣をはり翌年「向城」を築いたとの記録があり、これが城の始まりと思われます。天正六年(1578年)織田信長方の斎藤新五らは飛騨方面より攻め込み河田長親らが撤退した後ここを居城としました。そして北西3Kmの今泉城にいる河田長親・椎名小四郎らの上杉勢を攻め勝利したとされます。城の位置について、ほ場整備のときに建てられた記念碑周辺と考えられていましたが、平成3年の発掘調査で、ここから東に延びる堀跡が発見され、その中から安土桃山時代の土器が数多く出土したことから、この堀跡が城の一部であると推定されました。付近には斎藤新五ゆかりの地がいくつか残されていて、城跡の一角にある円光寺は斎藤新五の菩提寺と伝えられ、また、新五の娘の病を治した霊泉と伝えられる的場の清水があります。 ≪現地案内板より≫ ≪浮田家≫ 浮田家は加賀藩の役宅として、江戸時代中期の豪農民家の建築様式を当時のままに残す貴重な建物である。この家が現在の地に定住した年代やその出身に関したは明らかではないが、元禄3年(1693年)三代宗兵衛が加賀藩より奥山廻役を拝命、禄高500石を有して以来藩の役宅として栄えた。後に代官職も兼ねるようになり、文政10年(1827年)七代善左衛門の代には3000石の格式に遇された。奥山廻役とは奥山の巡視を行う役職で、明治3年の職制廃止まで代々浮田家が継いだ。この家は敷地5190uで周囲を堀と塀を巡らす。東に面した表門を入ると正面に主屋、左手に庭園、裏手に衣装蔵が一棟ある。(以前は三棟あった) 主屋の建立年代は浮田家の文書から文政11年(1828年)の造立とされ、当時は同規模の別棟が接続していた。表門は天保年間(1830〜1843年)と考えられる。 ≪現地案内板より≫ |
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