美濃の城015  

                                                                               

北野城  3972
説明板

白髭神社
A岐阜市北野東
B白髭神社・里三号公民館
東海環状自動車道の岐阜三輪スマートインタ(岐阜三輪パーキング)を下り、県道59号線に左折し南下します。約500m先左折し、約200m先を右折、すぐの北野神社手前を左折します。道なりに約200m先が白髭神社です。
城跡は白髭神社付近が北東端でここから約100m四方で土塁と堀に囲まれた館城であったようです。現在は白髭神社に説明板と土塁痕と思われる高まりが残ります。

C平城
F遺構等:説明板・土塁?
G戦国期/鷲見氏 
H満足度:凸
戦国期の文明十年(1478年)、鷲見保重は本拠の鷲見城を弟の保兼に譲り、北野城を築き移りました。永正七年(1510年)、美濃守護代の斎藤利良に攻められ保重は自刀しました。守護職の土岐正房は、保重の子の保定、直保を二代、三代として継がせますが、天文十六年(1547年)、斎藤道三が大桑城を攻めた際、直保は土岐方として戦い討死しました。忠直(保重の弟の保房の子)が四代として継ぎました。弘治元年(1555年)、斎藤道三は息子の斎藤義龍との戦いで、忠直は道三を鷺山城からこの城に迎えたとされます。翌年、道三は長良川の戦いで義龍に敗れ討死し、忠直も討死しました。直保の弟の保光は義龍方に付き、その後、龍興に仕えましたが、龍興が織田信長に敗れた後は郡上に逃れ遠藤氏に仕えたようです。北野城は忠直討死後に廃城になっているようです。<現地説明板・加筆>


J訪城:2023/09
  
跡部城 3973
城址碑と説明板
城域あたり
A関市武芸川町跡部
 旧:武儀郡武芸川町
B恵利寺
東海環状自動車道の岐阜三輪スマートインタ(岐阜三輪パーキング)を下り、県道59号線に左折し南下します。約1.2km先の北野西の信号を左折します。約2km先で県道94号線に合流します。約2.5km先、南武芸橋南の信号で左折します。約600m先の変則十字路を直進します。約500m先左手に碑と説明板があります。ここから右折し約300m北上した所に恵利寺があります。

城跡には碑と説明板があるだけで遺構はありません。

C平城
F遺構等:碑・説明板
G戦国期/跡部氏 
H満足度:凸
天文十年(1541年)、跡部将監頼利が築城したとされます。跡部氏は美濃源氏、土岐氏の流れで、頼利は土岐頼芸に属しましたが、天文二十一年(1552年)、斎藤道三に攻められ頼芸は大桑城を退去し落城、跡部氏はその後は斎藤氏に従ったようで、弘治二年(1556年)の道三と子の義龍の長良川の戦いでは子の貞頼とともに義龍に従いました。永禄七年(1564年)、織田信長に攻められ落城したとされます。 (稲葉山城(岐阜城)の斎藤龍興(義龍の子)が信長に攻められ、落城するのは永禄十年(1567年)です。)<現地説明板・加筆>


J訪城:2023/09
   

永井氏居館 3948
土塁?
土塁?
土塁?
A山県市西深瀬
 旧:山県郡高富町
B慈明院・隼人神社
東海環状自動車道の山県インタを下り国道256号線(新道)へ右折します。約200m先の西深瀬の信号を右折します。約1.2km先を右折し、約50m先のT字路を左折し、約50m先を右折した道の奥の民家付近が館跡です。

民家前から西側に50mくらいの長くて高い土塁が一直線にあります。ただ、草が多くて土塁が見えているわけでは無いです。これが遺構とは思われます。


C平城
F遺構等:土塁? 
G室町期?/永井氏 
H満足度:凸
永井氏の居館のようですが詳細不明です。永井氏は室町期から江戸初期くらいまでこの地方の豪族であったようです。

J訪城:2023/06・2023/09

結城  3947
城跡あたり
A安八郡安八町西結
B結神社
東海環状自動車道の大垣西インタを下り桧の信号を左折し国道21号線に入ります。約9km先の横屋の信号を右折します。約600m先の右手が結神社です。

境内に「結神社と織田信長」と「結城址」という説明板がありますが。「結城址」の説明板を見つけられませんでした。^^; 本来の神社敷地は河川改修で現在の揖斐川の中になるようです。

C平城
F遺構等:説明板 
G室町期・戦国期/高田氏・日比野氏 
H満足度:凸
城史は定かではないようです。高田二郎兵衛が館を構えていたと言われ、また、天文年間(1532〜55年)に斎藤道三の家臣の日比野下野守清実が城主であったとされ、永禄四年(1561年)、織田信長と戦い、清実は討死し、城は焼失したとされるようです。

J訪城:2023/06