遠江 片瀬城



ファイルNo4018


              南区域 堀切土橋              

@ かたせじょう 
  別名 一宮城 

A住所:周智郡森町一宮
B目標地点:八面神社
C形式:山城  D比高:60m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・説明板
G時代/人物:戦国期/武藤氏?・武田氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  新東名道の高架下から15分

J撮影・訪問時期:2024年03月

  

道案内    ←八面神社

新東名自動車道の森掛川インタを下り、信号を右折し県道40号線を進みます。約2.5km先の福田地の信号です。さらに約3.5km先、谷崎の信号、そこから約300m先の愛光園入口の信号を右折します。約700m先、新東名道の高架をくぐったところで左折し、約50m先の右上の山が城跡です。約100mほど山沿いの道を歩くと左手に谷間に入れる箇所があります。ここに入り登ると崩落した東斜面の上に尾根があり、この周辺が城跡主郭です。しかし、ここから登るとはきついかもです。
訪城備忘録

城域は南側は新東名高速道路で1/3が消滅し、北側はゴルフ場で1/3が消滅、主郭と二の郭、及び、その間にある堀切が残り、南側の城域端の郭の一部と小さな堀切が一条残るという状況です。

説明板は八面神社のところにあります。愛光園の信号か県道を約300mほど行ったところで右折し、約100m先で左折しすぐを右折し山側へ向かいます。約150m先を左折し坂を上ると八面神社です。八面神社から北へ進むと大きな墓地が高台先端にあり、これの西端から山に向かいますと竹薮に入ります。出来るだけ尾根を進んで高速道の手前でやや左手に行くと城域端の小さな堀切土橋とそこから落ちる堅堀を見ることができます。しかし、これより先は高速道でフェンスもありますので当然行けません。いったん戻り、高速道の反対側に行きます。

高速道の山裾高架下に小さな階段がありました。ここを登ってみましたが、階段は途中から崩壊していてとても登って行けません。途中から山の斜面を直登して尾根のそばまで登ってみましたが、ものすごい矢竹の薮でそれ以上進めませんでしたので、いったん、東側麓側へ降りていき、東側から尾根に登れるところを探しましたが東側は斜面が崩落していて感じでほぼ垂直の壁になっててとても登れませんし危険です。たぶん主郭下だろう地点で支尾根のように突き出ている斜面が登れそうでしたが、ここまで来たところで気力が無くなって登りませんでした。 城友は西側からの急斜面を登ったそうです。主郭と二の郭の堀切はわりと明瞭に残っているようです。全体の縄張は武田氏の影響の強いものと言われます。

説明板
歴史

築城時期は定かではないですが、永禄十一年(1568年)、武田氏に属した武藤氏定が、徳川氏の侵攻に備えて新たに築城し真田城より移ったとされます。元亀三年(1572年)、武田信玄は遠州攻めを開始した際には武田氏の拠点のひとつでしたが、信玄が病死し武田軍が甲斐に去ると徳川家康に攻められ、武藤氏は甲斐に退去したとされます。

南区域端の堀切からの堅堀
城跡遠景
現地説明板より(加筆)
地理院地図より
  
南区域城域端の堀切土橋
南側堀切        北側区域矢竹の薮
主郭から伸びる支尾根<ここから登れるかも>
東下から主郭方面を見上げる
武藤氏屋敷+草ケ谷城 4019
@ むとうじやしき+くさがやじょう A住所:周智郡森町草ケ谷  B目標地点:香勝寺
C形式:丘城  D比高:40m E現況:宅地 寺 山林  
F遺構等:(屋敷):土塁 (城)なし・類似説明板(香勝寺)
G時代/人物:戦国期/武藤氏  H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:香勝寺から10分
J撮影・訪問時期:2024年03月   武藤氏屋敷   草ケ谷城

新東名自動車道の森掛川インタを下り、信号を右折し県道40号線を進みます。約2.5km先の福田地の信号です。さらに約600m先の信号で右折し、約300m先を左折し、約100m先、草ケ谷のバス停そばで右折しY字を左側に登ります。約200m先を左折し約50m先左手が武藤氏屋敷跡です。ここから約50m先を右折し約150m先の正面が香勝寺です。ここに武藤氏の墓所があります。この山門前を左折し、約100m先を右折し、約150m先を右折すると茶畑用の作業道になります。軽四程度は上がれますが、普通車以上は登らない方がいいです。Uターンするところもないです。右折し、約250m登ると道が左右に分かれます。右手に進み約150m先が香勝寺の裏手の丘陵先端になりますが、一面、茶畑、寺側斜面は墓地です。この周囲が草ケ谷城との事らしいですが遺構らしきものは無いです。Googleマップはこの丘の頂部にポイントがありますが、香勝寺が主要と見るべきですね。

武藤氏屋敷は道に沿って鍵状に土塁が残ります。香勝寺には武藤氏に関する説明板が山門横にあり、寺には武藤氏の墓地と説明板があるようですが、寄りませんでした。 草ケ谷城は香勝寺を含めた一帯が城域です。

武藤氏は元々北九州の少弐氏の一族とされます。(小弐氏も元々は武藤牲) 南北朝期、ここの地は小弐氏の所領であったようで、その地頭職で武藤氏が来着したものと考えられます。永享四年(1432年)、武藤氏は小弐氏から独立し、享禄四年(1501年)に武藤用定はこの地の代官職に任じられたようです。戦国期、武藤氏定は今川氏の被官でしたが、桶狭間の戦いで今川義元が敗死後、武田氏に帰属していったようです。氏定は、三方が原の戦いでは武田氏として参戦し、徳川氏との高天神城の攻城戦でも武田氏方として城に籠り、天正九年(1581年)、高天神城で討死したとされます。武藤氏屋敷は江戸期中期にも陣屋敷として使われた記録があるようです。草ケ谷城は用定が代官職を任じられた頃の築城と言われるようです。天文十四年(1545年)、氏定を開基として草ケ谷城の跡地に香勝寺が開かれたと言われます。

武藤氏屋敷土塁
香勝寺山門      類似説明板
丘陵先端(草ケ谷城城域?)

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