遠江/ | 高天神城 |
ファイルNo1267 |
「高天神を制するものは遠江を制す」 今川・徳川・武田も三者攻防の城
@ たかてんじんじょう |
道案内 ←搦め手登り口 ←大手登り口 | |||
東名高速道路掛川インタを下り、県道38号線を進みます。4km先の上内田の二股の信号を右手へ(県道38号線のままです)すすみます。5Km先の小貫の信号を右折(県道38号線のままです)、4km先の下小笠川を渡ったところのT字交差点を左折し400m先を右折し、道なりに600m先を右折し800m先で左折しすぐ右折し400mほど行った先が大手の登り口です。あるいは、T字を右折し600m先を左折、上土方工業団地そばで左折した先が搦め手の登り口です。搦め手口の方が駐車場は多く、道も整備されています。 |
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訪城備忘録 | |||
一城別郭的な縄張りで、本丸周辺は今川系あるいは徳川系の城、二の丸・堂尾曲輪側は武田系の築城形式を残す城と言われています。搦め手口から登ると、尾根の鞍部(井戸曲輪)に至ります。左手へ行くとすぐに左手に登る道があり、登ったら的場曲輪、その上が本丸(主郭)です。本丸は低い土塁が巡ります。その先に御前曲輪があります。いったん道に戻り、大手道を少し下りると三の丸(郭)になっています。ここも低い土塁が巡ってます。鞍部に戻り、反対側へ進むと、鞍部の最後に井戸が残ります。右手を少し登ると的場曲輪があり、その先に堂尾曲輪、中間に大きな堀切があります。的場曲輪の左手前上が二の丸(郭)とされます。以前、発掘調査の際に訪れましたが、今は段郭のような感じになってました。的場曲輪と二の丸の間を下りると堂尾曲輪にある堀切を横から見る事ができます。さらに、長大な横堀が曲輪に沿って延びていて見事です。 大手側登り口に廻ると大手門跡、その上に着到曲輪があり、この曲輪は整備がされていませんが、高い土塁が周囲を巡ってました。 |
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築城初期はよく判っていないようです。源平合戦の頃に築城されたという伝承があったり、室町初期のこの辺の豪族の城であったとも伝わるようです。室町中期に今川氏の家臣の福島氏がこの地域に城を築いたとされます。あるいは、応永二十三年(1416年)に今川了俊が築いたとされます。永禄十二年(1569年)に今川氏真が掛川城を明け渡して小田原へ逃れ、今川氏が滅びると徳川家康が小笠原長忠をこの城に入れました。元亀二年(1571年)には武田信玄が攻めますが落城しませんでした。天正二年(1574年)に武田勝頼が攻め、これを落城させ、城代を入れました。天正三年(1575年)の長篠の戦いに武田勝頼は破れ、徳川家康は高天神城奪回を開始しました。天正六年(1578年)に大須賀康高に横須賀城を築かせ、さらに高天神城を包囲するように六つの砦を築き、天正九年(1581年)に落城させ、その後廃城になりました。 |
二の丸発掘調査 |
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