遠江/ | 掛川城 |
ファイルNo1259 |
本格的な木造での天守・大手門の復元され、また、現存御殿の残る城
@ かけがわじょう |
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【道案内】 東名高速道の掛川インタを下り、料金所を越えてすぐの信号を右折し、次の信号を右折し県道38号線に進みます。500m先で東名高速道をくぐり、さらに600m先で東海道線をくぐります。300m先の仁藤の信号で左折し県道37号線に入り、500m先の信号を右折し県道39号線に入り300m先の右手が天守ですが、仁藤の信号を左折し最初の信号で右折し川の手前の市営駐車場から歩いて城址公園に向かいます。 【訪城備忘録】 見所は平成六年に復元された木造の復興天守と現存の二の丸御殿でしょうか。復元天守は古図面から木で復元されていて一見の価値はあります。近くには大手門も木で復元されていますが、この門は油山寺に現存しているため、比較するのもおもしろいかも。太鼓櫓は荒和布櫓が建っていた位置に三の丸から移築されたものです。二の丸御殿は二条城の二の丸御殿のようにきらびやかというわけではありませんで、台所、土間などを見ていると生活感を感じます。 【歴史】 文明元年(1469年)、今川氏の家臣の朝比奈泰煕が築いたと伝えられますが、この主郭は現在より北東側にあったようです。(掛川古城) 朝比奈氏が三代続きましたが、今川義元が桶狭間で敗死後、武田氏、徳川氏の双方より侵攻を受け、永禄十一年(1568年)には当主の今川氏真は武田氏に攻められ駿府館を捨て、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ籠城しました。掛川城は徳川勢に攻められるも落城せず、氏真の助命を条件に開城しました。氏真と泰朝は小田原城に退去し、掛川城には徳川氏の持城となりました。天正十八年(1580年)に家康が関東に移封となり、掛川城は山内一豊が六万石で封じられました。慶長五年(1600年)の関が原の戦い後、一豊は土佐二十万石に転封し、久松松平定勝が入りました。その後、めまぐるしく藩主が変わりましたが、万治二年(1658年)より井伊氏が四代、宝永三年(1706年)より桜井松平氏が一代経て、正徳元年(1711年)より小笠原氏が三代続き、延享三年(1746年)に太田道潅の子孫の太田資俊が城主となり、以後太田氏が明治維新まで続きました。 |
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