若狭 | 箱ケ岳城 |
ファイルNo3456 |
比高300m超えの城跡
@ はこがたけじょう |
道案内 | |||
舞鶴若狭自動車道の小浜インターを下り、小浜インタの信号を直進し県道267号線に入ります。800m先の小浜インタ口の信号で左折し国道27号線に入ります。約15km先の井ノ口の信号で左折します。1.2km先のテクノバレー入口の信号で直進します。(直進と書きましたが感覚的には斜め左へ下りていくという感じです。)800m先が堤の集落で、そのまま直進して坂を上ると桂雲寺手前に大きな駐車場があります。ここから右手の桂雲寺を進み、観音堂との間を通るとすぐにフェンスでこれを越えていきます。 |
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訪城備忘録 | |||
この城へはいったん城跡から見て南東の尾根に登り、そこから急坂をひたすら登ります。何カ所かの平坦地と手書きの標識があります。城跡主要部は山頂部(標高402m)を中心に南北尾根にあります。 まずは、桂雲寺背後のフェンスを越えてやや右手沢沿いを少し登ります。砂防ダムの手前に橋があるのでそれを渡ります。渡るとやや土砂崩れして道がわからない部分を越えると木の枝に「登山道」という標識がある道がありますのでここを登ります。少し登ると「搦手」の標識のある箇所に至ります。ここ、後世に手が入ってるんでしょうけど搦手門的な構造です。赤土で周囲全体に赤いです。 「搦手」標識の上から北西斜面(城跡から言うと南東斜面)の急坂をひたすら比高250mほど登ることになります。最初の急坂を登り、最初の平坦地に至ります。「箱ケ岳城跡」、「城郭」の標識があります。出丸的な感じでしょうか。わりと広い平坦地です。 再び急坂を登ると2カ所目の平坦地に至ります。ここには「搦手・城郭」の標識があります。最初の平坦地よりは狭い平坦地です。この背後のピークを越えると最初の堀切があります。標識はないですがまさしく堀切で土橋もかかります。この城跡で一番明瞭ではないかな。 堀切を越えて、また、急坂を登りますと三番目の平坦地に至ります。平坦地手前の斜面から見ると左側がやや出っ張っている感じで登城道は虎口のようになってます。往時も虎口やったんやろな。ここには「城郭」という標識があります。ここは細長いですがしっかり削平され途中に明瞭な切岸で二段になってます。三の郭にでも相当するんだろうか。主要部下の郭です。 最後の急坂を登ります。途中、斜面に「堀切」の標識のある堀切があります。手前から見ると堀切と言うにはという感じですが上から見るとその堀切がはっきりします。ここを登りきりと主要部の南端に至ります。 南端には「奥の院跡」の標識があり、西側斜面にはわりと大きな段郭が何段かあります。(疲れてそこまで下りてません^^;) 「奥の院跡」の標識から主郭手前までは大きな平坦地で二の郭相当なんでしょう。 切岸を登ると主郭です。消えてますが手書きの城址碑と木に説明板が立て掛けてあり、木に「箱ケ岳城址」の標識がくくってあります。さらに北側へ進むと北尾根になりますが、下りたところに二重堀切があります。草木に覆われて深さが実感できないです。城郭遺構はここまでのようです。さらに北側は急坂を下りて行くと不動の滝があるようですが、ここで引き返しました、主郭の東斜面にも段郭が何段かあります。その横に薄いですが竪堀もありました。段郭に下りて竪堀の横を直登してましたらマムシに遭遇・・・。戦意喪失しました。 全体的には古い感じの城で、遺構も技巧的とは言えない感じですが、主要部の郭は広く、拠点城であったと考えられます。 蛇足ですが、わりと近く(国道27号線側)に瓜割の滝という名水の滝があります。 |
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築城時期、築城者は定かでは無いようですが、鎌倉期に源頼朝の家臣の島津忠季(その後津々見氏を名乗る)が堤城として築いたとされるようです。室町期には後瀬山城の武田元信の家臣の内藤五郎左衛門(佐渡守)国高が永正年間(1504〜21年)に再築したとされます。<主郭説明板より> 内藤氏一族はここを惣領家として、天ケ城、湯谷山城の各内藤家があります。 |
瓜割の滝 2019/09 |
近くの城・関連の城:天ケ城 湯谷山城