越前 波多野城



ファイルNo3140

畝状竪堀を多用した城

 畝状竪堀 D

@ はたのじょう 
  別名 

A住所:吉田郡永平寺町光明寺・花谷
B目標地点:
C形式:山城  D比高:350m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・畝状竪堀・碑・説明板
G時代/人物:鎌倉期/波多野氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  登り口から60分
  城山林道の登り口から10分

J撮影・訪問時期:2017年04月・2022年06月
            (2022年09月)

  

道案内 ←徒歩登り口  ←城跡   ←林道城山線の始点

北陸自動車道の福井北インターから 永平寺大野道路の永平寺インタから国道416号線(国道364号線併用)に入り、約2km先、えちぜん鉄道光明寺駅近く、国道右手に登り口駐車場があり、説明板が設置してあります。 ここから登りますが距離は約2.3kmです。 

林道城山線では永平寺インタを下り、左折し国道364号線に入ります。約300m先に永平寺大野(自動車専用)道路(国道158号線)をくぐるトンネルがありますのでそこへ左折します。トンネルを越えたら右折し永平寺大野(自動車専用)道路(国道158号線)に沿って約200mほど進むと永平寺大野(自動車専用)道路(国道158号線)に架かる陸橋があります。このが城山林道の始まりでそのまま林道に入ります。林道で入口から約5.5km先が城域下の登り口です。相当にガタガタ道で帰りはブレーキをずっと踏んでないとという状態で降りてきたらブレーキの焦げた匂いがしました。自己責任で行ってください。

遺構写真の数字は説明板に書かれた番号を使用しています。スカイブルー矢印の通りに廻りました。

波多野氏館は麓の徒歩登り口より国道を約400mほど永平寺インタ側に行ったところです。

訪城備忘録

2016年8月の盛夏、比高350mの城跡には登れませんでした。^^; 2017年04月、改めて登ってみました。林道城山線では無く、麓の説明板からの別の林道を登ります。麓から約2.3kmの道のりです。(車では入れません。徒歩のみです。) 林道終点に説明板があり、尾根まで木の階段の登り道を行きます。尾根に登ると左手に進みます。すぐに堀切Gが見えてきます。

その先に明瞭な畝状竪堀群Dがあります。畝状竪堀を見ながら左手尾根を進みます。尾根には堀切が2条あり、その先の山頂に主郭があります。主郭手前右手下に畝状竪堀C、土橋と呼ばれる長い細尾根・土塁?があります。畝状竪堀のBもCもわりと緩斜面にあり、敵が山の斜面の横移動を削ぐというものでは無い感じです。元々郭であったものを畝状竪堀にして潰している感じに見えます。細尾根も土橋と呼ばれる箇所も自然地形では無く、削り残しなんかなと思わせます。畝状竪堀Cは水の手を守るため、畝状竪堀Dは主郭に近づくのを防ぐためかな? 

主郭から北に向かって段郭が2段あり、その北側下の北東に堀切Bと北西に堀切C、東下に畝状竪堀Eがあるようですが、ここは斜面が急でかつ藪のため降りるのはあきらめました。戻って一騎駆けのような土橋を渡ります。その先に経塚と呼ばれるピークがあり、その南東に段郭が三段ほどあります。この郭群の東下に畝状竪堀@がありますが藪状態でした。郭群の南東下に堀切EとFもあるようですが藪のため断念しました。

経塚から西の尾根に降りて行きます。この尾根の南側にも畝状竪堀Aがありますが、肉眼ではわかりますが藪でした。尾根の先に深い堀切Hがあります。この南側にも竪堀があります。堀切から北側へ降りて行くと水の手です。池になってますが湧いているのか雨水を貯めているのかよくわかりませんが、明瞭な谷部の水の手です。

北側に再度登ると堀切Iを越えて畝状竪堀Dの下部分に出ます。これで城域を一周したことになります。この遺構は朝倉氏の一乗谷城山の構造に似ているところもあり、戦国期に朝倉氏の手で改修されたと考えられるようです。 登る前に麓で地元の方とお話ししましたが、経塚周辺の整備がまだなんやと言われてましたから、今後はその周辺も整備されるのかもしれません。

2022年06月に再訪しました。麓からはもう暑くてきついので林道を使いました。対向車が来たらダメという道幅で道は荒れていて車高の低い車や幅のある車では行かない方がいいかもしれません。、距離も約5.5kmと長いです。 しかし、車で行けますから麓より登りよりは断然楽ですね。この6月、相当に藪っているかなとは思ってましたが、畝状竪堀Dは形状がきちんとわかるくらいには見られました。畝状竪堀B、Cもなんとか見られる感じですが、畝状竪堀@、堀切E、Fは藪の中でした。^^; 木々の緑が映えてますので枯れた時期の寒々しさはないんでこれはこれで雰囲気はよかったです。

畝状竪堀群は朝倉氏の改修とは思われます。朝倉氏の城郭で大規模な畝状竪堀を持っているんはここ波多野城、本城である一乗谷城山もそうなんですが、畝状竪堀はすごい数あるんですが その上の郭が小さい。居住性がない(主郭周辺はやや広いですが)感じです。まさしく戦闘の城だったという事でしょうか。 

徒歩登り口の駐車場がある所から西に約400m先の左手が居館跡と伝わります。今は個人宅ですので、見学される場合は注意ください。遺構は残っていないようです。

麓の説明板
歴史

城の築城時期、築城年代は定かではないようです。越前波多野氏は波多野出雲守義重を祖とし、承久三年(1221年)の承久の乱の功によって、吉田郡志比荘の地頭として相模(神奈川県秦野市の波多野氏丹波八上城の波多野氏も同族とされます。)より入部したとされてます。波多野氏は鎌倉・南北朝期に勢力がありましたが、戦国期には朝倉氏に従ったようです。、波多野氏館は永平寺町谷口・東古市にあったようで、波多野城は詰め城であったようです。戦国期には朝倉氏によって改修されたようです。天正元年(1573年)の織田信長の朝倉氏討伐時に廃城になったようです。

畝状堅堀 D 夏
畝状竪堀 D        堀切 H
現地案内板より
城域からの眺望
麓からの登城道(林道)終点を見下ろす
主郭より勝山方面眺望
城山林道からの登り口
  
      徒歩林道終点登り口と説明板  登り道途中「しあわせのアーチ」なんのこちゃ?
 尾根から          尾根の最初の堀切状
堀切 G      堀切 I
畝状竪堀 D
尾根と堀切 G        尾根と畝状竪堀 D
畝状竪堀 D  (堀切Iから)
畝状竪堀 D 夏
畝状竪堀 D 夏
尾根堀切 A       郭 Wと畝状竪堀 C
畝状竪堀 C
畝状竪堀 C
主郭手前
主郭手前堀切 @         土橋と呼ばれる土塁?尾根?
土橋と呼ばれる土塁?尾根?
主郭と城址碑             主郭下段郭から主郭を見る
主要部先端
主要部先端下堀切
主要部先端からの眺望
土橋と呼ばれる土塁?尾根?と堀切 @
土橋と呼ばれる土塁?尾根?と堀切 @ 夏
土橋と呼ばれる土塁?尾根?
土橋と呼ばれる土塁から主要部を見る
郭E付近             土橋と経塚のピーク
経塚から竪堀?(堀切方向)
畝状竪堀 @
畝状竪堀 B
畝状竪堀 C        経塚の切岸
堀切 H
堀切 H 夏
堀切 H
堀切 H 夏
水の手遠望 堀切H先端から
水の手遠望 夏
水の手
水の手から堀切Hを遠望
水の手郭から堀切I方向
城跡遠景
城跡遠景
城跡遠景(徒歩の林道途中から)
城跡からの眺望
居館跡

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