若狭 / | 大塩城 |
ファイルNo1849 |
近畿周辺ではめずらしい障子堀のある城
@ おおしおじょう |
道案内 | |||
国道27号線の湯岡橋東詰の信号から国道162号線に入ります。南川沿いを進み、5.5km先、小浜市総合運動場を越え、奥田縄川を越えて100m先で国道は右カーブですが、その途中に集落の案内標識と大塩城の案内のある路地に入ります。250m先で左折し、100m先が大光寺です。寺の背後の墓地のところから奥に入り、すぐに左手に登る道があります。 |
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訪城備忘録 | |||
最初に寺の右手の違う山の中腹まで登ってしまいました。登り口の案内は無いのですが、墓地の裏手の谷筋が入ってすぐを左手に道がありますので、ここへ登って行きます。道がありますとは書きましたが、以前は整備されていたようですが、訪れる人も少ないのか、雨に道は流され不明瞭な感じになっています。つづら折れの道を西に突き出した尾根先端まで登ります。ここは出郭か見張りの郭でもあった雰囲気です。ここから急な尾根を一気に登りますと主要部虎口に到達します。主要部は南北二つの郭で、北側が若干低く、北の郭の北側と南の郭の南側に三日月状に土塁が巡ります。主郭には祠が建てられていました。この城の見所は、南の郭の南側にある堀切です。この堀切には5本の土橋がかかり、障子堀になっています。実際には1本は明瞭で、2本がなんとか判るという程度の土橋です。城域は主要部の東側に帯郭があり、さらに北側尾根に郭が延びています。北側最初の先端で戻って来てしまいましたが、後で資料を見ると、この先端から左手に若干下りた尾根にさらに郭があり、その先に堀切、さらにその先に土塁がL字に重なった郭、最終のピークでは神社跡であるかもしれない円形の郭があるようです。麓の大光寺は大塩氏の菩提寺であり、周辺に館・館ノ口という字名が残っているようです。 |
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史料では、文明元年(1469年)に若狭武田氏の家臣の大塩吉信が築城したとあるようです。大塩氏は元々は播磨の赤松氏に従っていた国人であったようです。嘉吉の乱(1441年)を境に若狭武田氏に従ったようです。大塩氏は代々長門守を名乗り、吉信、吉次、吉忠、助秀と続いたようですが、永禄五年(1562年)に湯岡城主の南部久方に破れ、国吉城の粟屋氏を頼ったようですが、その後の大塩氏は粟屋氏同様に織田氏に従ったようでもあります。 |
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