若狭 / | 国吉城 |
ファイルNo1198 |
戦国らしい連郭の城跡が見事に残り、時代の違う石垣が残る
@ くによしじょう |
道案内 | |||
北陸高速道敦賀インタを下り、料金所を超えて左側に下り8号線バイパスに入ります。2Km先の岡山1の信号で直進し国道27号線に進みます。5Km先の旗護山トンネルを越えたところで立体交差になっているところで道が交差しているので注意してください。国道27号線を進みます。国道27号線は新道が出来ています。旧道は、海沿い(坂尻海水浴場)を6Km進み、新道に合流すると佐柿です。新道は国吉城トンネルを越えると佐柿です。合流から500m先の佐柿のバス停でそこを左折します。すぐにまた左折で700mほど行ったところで左折した前方の山が城跡です。右手に徳賞寺があります。館跡の奥の急斜面に登城道があります。 |
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訪城備忘録 | |||
2001年に訪城し、2014年に久方ぶりに城山まで登りました。麓の館跡(粟屋氏館)に石垣遺構が残ります。発掘調査で石垣が出ています。麓の石垣は木村時代のもの、京極氏支配の頃のものと考えられるとの事です。また、江戸期の代官屋敷跡の石垣なども残ります。登城道を登っていくと、途中に高い土塁と食い違いの虎口のあるほぼ単独の郭があります。説明板には二の丸(郭)という標記になっていますが、位置的には出丸ですが、山頂の主要部と違い高い土塁を有し、作られた時期が違うような気もします。山頂の主郭から北西には大きく5つの段郭が連なります。この切岸が高くするどいです。虎口のスロープや登り土塁になってる段郭もあります。主郭は低い土塁が巡り、主郭南側には櫓台跡のような土塁の段があり、その下には大堀切に続いて小さな堀切がふたつ連なります。登城道の上部から主郭周囲には発掘調査で検出られた石垣を各所で見ることができます。2001年当時は発掘調査もまだでしたので、藪、林状態の箇所が多かったですが、2014年、まだ、発掘調査もされていますが、戦国の城が蘇っていました。 2015年10月、去年に引き続き訪城しました。 主郭の東虎口の発掘調査(途中)の現場を見られたのは収穫でした。 2019年06月 若狭国吉歴史資料館の10周年記念講座で国吉城に登ろうというイベントに参加してきました。降水確率100%で大雨予報の天気予報でしたが、開始のAM10時から正午までは奇跡的に雨は降らず主郭(本丸)までは順調に解説を聞きながら進みました。山上の連郭の段郭へ行こうとした時に降り出し、残念ながら段郭部分には行けませんでしたが、昨年から今年にかけて、主郭(本丸)、山上二郭の斜面木々が伐採され眺望が開けてました。山上段郭も間伐、伐採、草刈りがなされ、以前に比べ遺構が明瞭に見えるようですが、今回は行けませんでしたんで早いうちに再訪したいものです。斜面の伐採で山上二郭の北斜面に新しい石垣が発見されたりしてるとの事です。 2019年07月 先月に続いて資料館の講座を拝聴しその後に城跡に登りました。先月は山上の段郭が雨で行けなかったのでそちらを中心に行ってきました。確かに以前に比べ間伐され草刈りされていますので、見やすくなってました。ただ、7月下旬の梅雨も明けた日でしたので、暑くて登るだけで一苦労でした。 |
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天文年間(1532〜55年)に後瀬山城主若狭守護の武田氏の家臣であった粟屋勝久が築城したとされます。(あるいは修築したとも伝えられます。) 一乗谷朝倉氏五代の朝倉義景は永禄六年(1563年)から永禄十二年(1569年)の間にこの城に攻め込んだが落とすことができませんでした。その間の永禄十一年(1568年)に武田元明は朝倉氏に拉致された形で一乗谷に移住させられました。元亀元年(1570年)の織田信長の越前侵攻の際に勝久は信長方に付き、国吉城を信長の越前攻め本陣としました。しかしながら、その際は浅井氏の謀反により信長は越前より撤退を余儀なくされました。その後、天正元年(1573年)に一乗谷を攻め朝倉氏を滅亡させますが、この先陣には勝久がおり、元明を救出しています。本能寺の変以後、勝久は豊臣秀吉によって転封させられ、藤堂高虎に仕えたようで、江戸期は臼杵稲葉氏の家臣となり、ご子孫は現在もご健在のようです。国吉城には木村常陸守重滋が入り佐柿に城下町を作ったとされます。しかし、重滋も文禄四年(1595年)の秀次事件に連座し自殺し木村氏は改易されたようです。若狭はその後には堀尾氏、浅野氏、木下氏、京極氏の支配下となり、江戸期に入り酒井氏が小浜城主となり、この地は小浜藩領となり、国吉城は廃城となり、麓に佐柿奉行所が置かれ、佐柿は宿場町となりました。 |
2019年撮影 |
近くの城・関連の城:粟屋氏館