若狭 / 新保山城



ファイルNo1406

若狭武田氏の後瀬山城に次ぐ規模の城。

                         (主郭)主要部北側の堀切   

@ しんぼやまじょう 
  別名 霞美ケ城 

A住所:小浜市新保 
B目標地点:龍泉寺 
C形式:山城  D比高:260m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・土塁・堀切・竪堀 
G時代/人物:戦国期/粟屋氏・武田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  新保集落から45分

J撮影・訪問時期:2006年05月

  
南側の最初の堀切

【道案内】  ← 「+」は城跡ではなく、登城口です。

北陸高速道敦賀インタを下り、料金所を超えて左側に下り8号線バイパスに入ります。2Km先の岡山1の信号で直進し国道27号線に進みます。5Km先の旗護山トンネルを越えたところで立体交差になっているところで道が交差しているので注意してください。国道27号線を進みます。20Km先の上中駅を越えてすぐの井ノ口の信号を右折し県道22号線に入り踏切を越えます。800m先で北川の橋を越えた信号で左折し県道24号線に入ります。5Km先の上野木の信号で右折し県道219号線に入ります。 2.1Km先、宮川小の手前で右折(新保の標識があります)し700m進みます。水田の中で左折し山裾まで行き、左折すると龍泉寺、右手に行くと新保集落です。右折して100mほど行った民家の横に山への道があります。

<舞鶴若狭自動車道の小浜インターを下り、小浜インタの信号を左折し県道24号線に入ります。約10km先の上野木の信号で左折し県道219号線に入ります。>
(あるいは上中駅から5Km先、新平野駅の先の信号で右折し県道219号線に入り上野木の信号を直進です。)

<さらに、滋賀県国道161号線の高島市今津町弘川の信号から国道303号線に入り、25Km先が三宅の信号でここを左折し国道27号線に入り、700m先が井ノ口の信号です。>
 


【訪城備忘録】

この城は大きく二つの区域で構成された規模の大きな城跡です。民家の横から山に入ります。道は沢に続いていますがこれは進まず、すぐに尾根へ登る道を登ります。比高150mまでは道が荒れています。木々は伐採されているところもありますが、倒木も多い状態です。まっすぐ登っていくと比高150mのピークに出ます。このピークの手前、比高110m地点で右手へ山道があります。この道はピークからいったん下がった城跡側の尾根鞍部のところに出られますが、この道が山の斜面で倒木が何箇所もあり、また、道も崩れていたりしますので、アスレチック状態で進まなくてはなりません。私は行きはピーク経由、帰りはこの道を通りました。鞍部から城跡までは荒れてはいますが、はっきりとした塹壕の山道があります。鞍部付近が比高130m程度、ここから城跡まで比高120mほど登ります。最初に小さいですがはっきりとした堀切を通ります。その後、主郭下で浅いですが幅のある堀切を越えます。主郭との段差は10mほどあります。主郭及びそれに続く北側の郭には直線的で古さを感じます。一番北側の郭の端に低い土塁とその先に明瞭な深い堀切が残ります。この山頂の郭群から西側に突出した尾根に比高40m下りた地点に郭群があります。山上御殿とも言えるでしょうか郭は広く、西端には堀切というより横堀があり、南北に土塁を有した居住性のある区域のようです。苦労?して登ったわりには規模が大きいだけで技巧的な城とは言えない城でした。さらに、南の低い尾根先端(龍泉寺の南東側)にも郭群を有するようが、主要部を歩いて来てバテバテでこの南端の郭には行きませんでした。この地区は地形的に三方を山が取り囲んだ所で、新保山城を中心に竹長城、東谷城、加茂城が取り囲むようにしてあります。この三城は新保山城を守る支城と想像できますので、一乗谷のような感じで一勢力の拠点を感じさせてくれます。

 
【歴史】

大永年間(1521〜28年)に粟屋元隆によって築城されたとされます。天文七年(1538年)に粟屋元隆は若狭守護武田信豊に破れ没落しました。新保山城は信豊の弟の武田信高が居城としました。その子の信方は武田氏の回復に努力するも天正元年(1573年)の朝倉氏滅亡後は備後に逃れたとされます。城は天正十二年の丹羽長秀の入部の頃に破却されたとされます。
 
  
主郭部を北側の郭より見る
  
西の郭(居住区)
  
  

近くの城・関連の城:後瀬山城

          

現地案内板より
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主郭南下堀切と切岸        主要部北側の郭の土塁
西の郭の先端の堀         西の郭の段郭
城跡遠景(麓の建物は龍泉寺)           龍泉寺