越前/ 戌山



ファイルNo1191

大きな高低差のある堀切・深く明瞭な畝状竪堀群が印象的な城跡
           主郭下竪堀

@ いぬやまじょう 
  別名 

A住所:大野市犬山〜清瀧・上丁 
B目標地点: みぐら清水/洞雲寺
C形式:山城  D比高:150m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・堀切・竪堀・土塁・説明板 
G時代/人物:南北朝期/斯波氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分
J撮影・訪問時期:2001年07月・2014年11月
          2017年06月

  
みくら清水

【道案内】    ←登城口(みくら清水)

北陸自動車道福井インタを下り、国道158号線を大野方面に進みます。約30Km先、新丁トンネルの抜け約1.4Km先のT字交差点で右折します。約200m先で右折し国道476号線に入ります。白山神社を越え山裾を約500mほど進むと左折する路地があります。ここに曲がり山裾をもう少し進むと「みくら清水」のところから登れます。(駐車スペース有)。大野城の撮影スポットに行くには上丁の登り口から登ると近いです。(上丁登り口は入り口が畑であり、車を停められるスペースは無いです。)



【訪城備忘録】

南西側説明板(みくら清水の場所)から登ります。2014年訪城は前日の雨で斜面はぬかるみ、斜面がけっこう急斜面のためズルズル滑るので登るのに苦労しました。2017年訪城は晴天でしたので苦労なく登れましたが、夏場で草木が伸びていたのは致し方なしです。(2001年は途中断念) 

登城口からいったん急斜面を登り、北西尾根先端からさらに登って行きます。尾根上にまずは小さな堀切2条を越え、さらに登ると大きな堀切が2条あり、ローブで登るような段差があります。なかなか、するどい勾配と高さ、堀切に伴う竪堀も含め明瞭です。1条目の堀切の手前の郭は出丸的な廓です。その周囲斜面には郭を守るように畝状竪堀があります。主郭は砲台状で、北側下には畝状の竪堀が明瞭に残ります。北東側細尾根に堀切が3条がありその際に小郭群がありますが、先端までは断念しました。主郭の南尾根上に郭群が連なり、先端には南の出丸的な小郭群があります。主郭と南尾根との高低差も非常に高いものでした。この南尾根上の出丸近くから最近有名になった大野城の雲海が見られるようです。南郭群を下りていくと堀切を越え尾根鞍部に至り、飯降山への登山道と上丁登り口から登って来る道に合流します。深く大きな堀切(高い切岸)、畝状竪堀群は朝倉氏の城によく見る遺構であり、この城はその典型的な城ということですね。

 
【歴史】

南北朝期の越前守護の足利(斯波)高経の三男の義種が大野を領して戌山城を築城したとされます。その後、四代義鏡まで続きました。亥山城の斯波持種の子の義敏が本家を継ぐ際に家臣千福中務大輔と対立し、千福氏が義敏を殺害し千福中務大輔が城主となりました。これに対し、将軍足利義政は朝倉敏景に千福氏討伐を命じ、これを討ち取りました。文明七年(1475年)、敏景(朝倉氏七代、英林孝景)は弟の朝倉下野守経景を置いて大野の支配にあたらせました。 朝倉氏十代宗淳孝景は大永七年(1527年)に弟の景高を大野郡司としました。最後の大野郡司は景高の子の景鏡で、戌山城から亥山城に居城を移したともいわれます。天正元年(1573年)、朝倉義景が滅亡、義景を裏切った景鏡は織田信長に大野郡司を安堵されましたが、翌年、景鏡は一向一揆衆に敗れて討死、織田信長は天正三年(1575年)、越前の一向一揆を一掃、大野郡には金森長近が入りました。長近は大野城を築城したため戌山城は廃城になりました。

    
  
南西側麓の説明板
  
主郭の説明板
     
  
   主郭              堀切から落ちる竪堀
現地案内板より
もっと戌山城 
堀切Aを横から
畝状竪堀のひとつ
堀切Aを上から
土橋と堀切
堀切Bを上から
北西尾根の堀切@
北西尾根の堀切A
   土橋                            北西の尾根堀切B
主郭北側下
畝状竪堀のひとつ
畝状竪堀を横から
畝状竪堀のひとつ
北東側主郭下切岸
北東側尾根堀切
主郭北東下堀切                           主郭北下竪堀
南尾根堀切@
南尾根堀切A
南尾根堀切A                         南の郭群堀
大野城より遠望:2016年8月
大野城と戌山城遠望
戌山城全景
戌山城の撮影スポットから大野城を望む
戌山城の撮影スポットから大野城を望む

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