越前/ | 福井城 |
ファイルNo1186 |
@ ふくいじょう |
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【道案内】 北陸高速道福井インタを下り、国道158号線を福井市内中心部に向かいます。国道8号線が高架で交差する西方の信号を直進して県道5号線に入ります。2.1Km先で高架でJR北陸線を越え、さらに500m先の幸橋北詰の信号で右折し、次の大名町の信号で再度右折します。400m先、県庁入口の信号で左折すると正面が県庁です。 【訪城備忘録】 城跡の本丸は県庁と県警察本部なっています。本丸がここまで占拠されているのは全国でもめずらしいです。本丸の水堀と石垣は完存していると言えます。内堀側石垣は折れの入った打ち込みはぎ積みで、内堀側石垣下に犬走りがあったり、四隅に櫓と天守があって近世城郭の中心部分がよく残ります。北西側には天守郭と呼べる一角になり一段高くなっていて、ここの天守はその上に福の井、控天守台、天守台があります。天守郭石垣は切り込みはぎ積みですが、福井地震の影響で石垣は孕んで変形しています。天守に控天守もある変わった構造です。この控天守も福井地震で相当に歪んでます。 本丸西側に山里口門と御廊下橋が復元されています。これは西二の丸の藩主御殿から藩主が直接本丸に入るための専用橋、及び、門であり、藩主の専用にため橋に屋根があるとの事です。山里口門はクランク状で通路があり、門も枡形になっていて、万一の防御もしっかりしています。 本丸の北側の福井市立郷土博物館の裏手に発掘調査で確認された舎人門、石垣、土塁、堀が復元されています。堀は三の丸の外堀になるようです。隣には松平氏別邸の柳泉水屋敷である養浩館庭園、養浩館が復元されています。本丸から南500mくらいのところにある柴田公園には北の庄城の石垣、福井城の三の丸石垣が発掘展示されています。 さらに、足羽山の北の麓にある瑞源寺(足羽町5−10)には本丸御殿の御小座敷が本堂として、大奥御座之間が書院として移築されてます。この寺は五代藩主昌親の墓所です。福井市北側の大安禅寺に越前松平家の廟所があり、初代結城秀康公を始めとした歴代城主の墓があります。 【歴史】 慶長五年に越前68万石で結城(松平)秀康が入部し、慶長六年より福井城(北の庄城)の大改修(築城)を開始し、慶長十一年に完成しました。慶長十二年に秀康が亡くなり、後を忠直が継ぎますが、寛永元年(1624年)に乱行を理由に豊後に配流され、忠直の弟の忠昌が51万5280石にて越前を継承しました。忠昌はこの地を北の庄から福居、後に福井と改めました。後、分封や減封などあり、いったん25万石まで領地は少なくなりましたが、分家松岡藩の宗昌が九代藩主になった際に30万石となりました。十代藩主宗矩で秀康系の系統は途絶え以後は養子が相続しました。天保十一年(1840年)には十六代藩主に慶永(春嶽)が就き幕末動乱に活躍しました。 |
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