近江/ | 虎御前山城 |
ファイルNo0827 |
小谷城攻めの際の織田方付城
@ とらごぜやまじょう |
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【道案内】←虎御前山公園(旧虎姫青少年キャンプ施設)側から登り口 北陸自動車道長浜インタを下り、県道37号線を東に進みます。3Km先の国道東上坂の信号で左折し国道365号線に入ります。約7Km先で須賀谷温泉入口の標識を越えると右手に小谷城の標識があります。300m先が小谷城清水谷の入り口である郡上南の信号で、そこで左折し県道510号線に入ります。道なりに 約2Km先で「虎御前山公園」の標識のところで右折し、北陸自動車道のガードをくぐり虎姫時遊館の前を越えたら右折し 虎御前山公園に入ります。中腹まで車道がありますのでそこを登ります。中腹には以前には虎姫青少年キャンプ施設がありましたが、現在は公園です。 この辺りは、丹羽長秀、蜂屋頼隆の陣所になります。中腹から徒歩で登りになり、NTT中継局アンテナのところから入ります。 あるいは、北陸自動車道小谷城スマートインター近く県道265号線沿いからも登れます。 【訪城備忘録】 中腹の公園から無線中継所の大きな鉄塔まで7分程度、ここは (伝)滝川一益の陣所が隣接しています。この城は多くの古墳群を利用していて、一益陣所の左側奥は堀がある削平地に見えますが頂部が平坦に加工されていますが古墳利用のようです。ここから、ハイキング道を進みます。ハイキング道の左手に郭跡のような平坦地、堀切のような窪みが各所にあり、尾根の各ピークに陣所跡があります。(伝)堀秀政陣所手前からは古墳も利用されているでしょうけど、明らかに城郭土木として構築された切岸、堀(堀切)、土塁があります。秀政陣所は堀が多用され、竪堀もあります。秀政陣所を越えると長い広い削平地で、過ぎた次のピークが(伝)織田信長陣所です。低い土塁で構築された桝形虎口を越えて陣所に入りますが、他の陣所より切岸が高くなって鋭いです。ここより先を下りながら進みますと(伝)木下(豊臣)秀吉の陣所に至ります。ここは他の陣所より大規模で二段の削平、土塁、横堀の痕跡と城らしさが漂います。ここから小谷城本丸が正面に見えて、 まさに指呼の距離という感じでした。 2018年4月、十数年ぶりに再訪しました。各郭周囲が見やすくなっており、標識も増えて分かりやすくなってました。中継局に向かう道沿いに案内板があり麓の軍用道を解説していて、遠くにその道が見えます。(伝)堀秀政陣所手前には礎石の上に建物を建てる形式が模擬展示されてます。この辺から礎石が出たんでしょうか? ただ、模擬展示の礎石は別の城(生津城)で発掘された礎石を使用していると説明板に書かれてました。秀吉陣では横堀が明瞭に見えるようになってましたが、冬場なら見えるのでしょうけど、この日は正面にある小谷城が樹木の葉で見えませんでした。 2019年12月、専門家のガイドの元、再訪しました。冬場で木々の葉が枯れていて見やすい上、草刈りの後でしたのでさらに見やすくなってました。専門家の方は現在の(伝)秀吉陣所が信長陣所であろうとの事でした。理由は、縄張りがもっとも技巧的である事が要因です。現在の(伝)信長陣所とされるところは郭は広く、山頂にはあるのですが、防御と言う点では単調な縄張りであるという事になります。現在の(伝)秀吉陣所の斜面郭に初めて入りました。削平は甘く、傾斜が残りますが、土塁が廻ってました。これは土塁という防御を重要視し、削平は後回しの痕跡だそうです。また、草刈りがされていたため、現在の(伝)信長陣所の中腹の(伝)佐久間信盛陣所にも初めて行きました。大変広い郭でした。帰りに「軍用道」にも行ってみましたが、「戦国の道」という碑があるらしいのですが見つけることができませんでした。^^; 【歴史】 虎御前山は別名八相山と呼ばれます。古墳が点在しています。元亀三年(1570年)よりの小谷城攻略に際し、織田方が築いた付け城です。天正元年(1573年)の浅井氏滅亡(小谷城落城)まで使われたものです。ただ、秀吉陣周囲はあまりに技巧的で、賤ケ岳の戦い<天正十一年(1583年)>の際に改修された可能性もあるとのことです。 |
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