| 近江 | 水口岡山城 | ![]() |
| ファイルNo0740 |
往時は総石垣の城も今は残存石垣がわずかに残るのみ。しかし、郭配置、縄張りは残る
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@ みなくちおかやまじょう |
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| 道案内 |
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国道1号線で湖南市(旧甲西町)方面から来ると、西名阪の信号の50m先の信号で右折し甲賀水口中心部に入ります。県道549号線に入り900mで新町の信号です。新町の信号の300m先(水口小学校の先)を左折すると古城山に登る道があります。今は車両通行止めです。登り口角に駐車場があります。城址碑のあるところから登り、最初のT字を標識に従って右手に行くと遊具のある平坦地に出ます。ここも往時は郭です。ここから山側の忠魂碑に登り、碑の裏手の山道を登って行くと旧駐車場に出ます。旧駐車場からまた坂道を登って行くと伝西の丸広場に至ります。さらに上が本丸です。 (この公園には山の反対側の城山中学のそばの古城ケ丘公園の山麓からも登れます。こちらも水道施設からは車両では入れません。旧駐車場で合流します。) |
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| 訪城備忘録 | |||
麓の駐車場から坂を登ります。途中、城山中学からの道と合流し右手に進み、中腹の広場に至ります。山側の忠魂碑のところに登り、その碑の裏手を登ると薮になってますが郭を通り、旧駐車場を通過して伝西の丸に至ります。 (広場から少し右手に行くと白玉稲荷神社でその右手から大手道と書かれた登り道もあります。) 伝西の丸には模擬櫓、模擬塀が建てられています。結構広いです。その先、堀切を越えて本丸です。堀切を越えて本丸に登る手前で標識があり本丸北下の残存石垣に先に行きます。この残存石垣の一段下には城内最大の規模の石垣が残ります。隅石垣は初期の算木積みのように見えます。戻って本丸に登ります。本丸は東西に長い郭で東西両端に盛り上がりがあり、どちらかが天守で、どちらかが櫓台であるようです。2014年には本丸南斜面の発掘調査があり、石垣の痕跡、栗石がたくさん出てました。さらに下に大手道の土塁の枡形虎口があります。 本丸東下を東に進む前に再度北下側に廻り込みます。ここに食い違い虎口とその上に残存石垣が残ります。 本丸の東下には堀切というより大きな空堀と言った方がいいような幅のある箱堀状の堀があります。空堀側は二段になってる感じです。さらにその先、東側には大きく3つの郭があり、郭間は堀切で処理されています。伝二の丸、伝三の丸、伝出丸という事になります。もっとも東の郭(伝出丸)は20mほど下がっています。20mの切岸を下りたところには相当に浅いんですが堀状の痕跡があります。この伝出丸、昔は遊具があったんですが、今は広場になってます。 伝出丸の南下の遊歩道を東から北へと歩いて行くと、伝出丸の南東下に郭と竪土塁、堅堀の遺構箇所と思われるところがあります。また、伝出丸の東下にも郭があり、その北側には斜面から麓に向かって大きな堅堀が落ちてます。遊歩道で少しは破壊されてますが、概ね明瞭と思います。遊歩道を北側を歩いて水道施設を越えて行くと本来は伝二の丸と伝三の丸の間の堀切から北斜面を麓まで落ちている堅堀を越えるはずなんですが草が多くてよくわからなかったです。 2025年現在、ここ10年を比較してみると、主要郭は草刈りもされ整備されているとは言えますが、斜面、特に帯郭、石垣周辺は昔に比べ藪化が進んでます。城跡の維持はやはり難しいですね。 @伝西の丸 A本丸下残存石垣 B本丸(+発掘調査時) C本丸北東下残存石垣+大堀切 D伝二の丸・伝三の丸・伝出丸 E斜面遺構 Fバルーン天守 G紅葉と桜 【訪城記録】 2014年04月訪城 「水口岡山城の会」主催にて行われたバルーン天守を見てきました。案外遠目で見るとそれなりですねぇ。城跡も整備され見やすくなってます。本丸南斜面の発掘現場では石垣及び栗石が広域に確認されてました。 2017年08月訪城 伝西の郭に木製の模擬櫓(展望台)が建ってました。2014年に訪れた時に発掘調査で出ていた本丸南側下の石垣は埋め戻されたんでしょうかね。 2020年08月訪城 夕方ふらっと登ってみました。夏場でもあり、かつ、コロナ禍でイベントが中止になっている事もあり、この城も春のイベントは中止でしたから草刈り等がされちない感じ。石垣周辺の藪化がひどいです。 2025年11月訪城 紅葉と城跡ちゅう事で歩いてみました。郭上には草は少ないですが、斜面、残存石垣周辺、堀などの藪化がさらに進んでます。 |
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天正十三年(1585年)豊臣秀吉の命を受けて中村一氏が築きました。天正十八年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い中村一氏は駿河に転封となったため、その後を増田長盛が、文禄四年(1595年)には長束正家が城主になりました。慶長十五年(1600年)の関が原の戦いで長束正家は西軍に同調したとされ、正家帰城後に池田長吉に攻められ落城しました。寛永十一年(1634年)に新しい水口城(将軍家御茶屋御殿)の築城に際し、石材を転用したため往時は総石垣の城であったこの城も今はわずかに石垣が残るのみです。 |
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| 本丸北下残存石垣 |
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| 本丸 |
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| 本丸北東下の残存石垣と大堀切(空堀) |
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| 伝二の丸・伝三の丸・伝出丸 |
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| 斜面遺構 |
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| バルーン天守 |
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| 紅葉と桜 |
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近くの城・関連の城:
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