近江/ | 八講師城 |
ファイルNo0732 |
比高300mも林道で城下まで行ける。
@ はっこうじじょう |
道案内 ←登城口 ←城跡 | |||
彦根方面より国道21号線で来ると、梓河内の信号で右折し、すぐに名神高速のガードをくぐり集落に向かいます。集落手前に左折する道があり、案内板の立っています。その先は林道ですが、入口にゲートがあります。この林道稗谷線に入り麓より城跡まで5Kmと表記があります。(比高で300mくらいでしょうか) この林道を進みます。城跡下の尾根は幅広の尾根ですが、今は土砂が両サイドに積み上がってますが、乗用車数台は停められます。ここより10分(比高で40mほど)ほど登りますと城跡です。 <2018年時点、駐車場先の林道(高屋城方面)は通行止めでした。> |
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訪城備忘録 | |||
登城道から尾根まで30mほどです。尾根から案内板に従い西に進みます。城跡までの尾根上もなんとなく郭跡のような小郭的平坦地が数箇所あります。明確な堀切は無く、堅堀と標識があるところは二重に竪堀状に落ちています。最後の坂を登ると主要部です。主要部は東西に三段で分かれています。一番上段は面積的にも狭く中央に巨石があり、南西側がさらに高く、櫓台のようです。ここからの眺望はすばらしいです。上平寺城(弥高寺)や長比城がはっきりとわかりました。(2023年時点では正面の木々が成長しすぎて見えなくなってます。) 横山城も、遠くには小谷城(小谷山)も見えます。(こちらは2023年時点でも見えました。) 西側は樹木があるため見通せませんが、無ければ米原方面からの街道が見渡せるのでしょう。上段(主郭)と中段(二の郭)は5m程度の切岸になっています。下段(三郭)から中段(二郭)、中段(二郭)から上段(主郭)へ、南側にそれぞれスロープ状の土塁があります。下段(尾根東の郭・三郭)は上段中段と少し趣が違います。下段(三郭)の東側先端は半円状の土塁(櫓台)があり、その手前に俵程度の石が多数ゴロゴロしています。これは石垣の材料の残骸?、それとも庭の跡だろうか?。 南側には虎口があり外枡形になっており、虎口両サイドに石積の痕跡があります。特に南側の虎口と同一面の郭内には一列に並んだ明瞭な石積が残り、外側斜面には二段ほどの石積があります。 中段(二郭)の北側には腰曲輪があり、ここより東北に延びる尾根には数段のけっこう大きな段郭が確認できます。また、上段(主郭)は南側が大土塁になっていて櫓台なんだろうか。上段(主郭)から延びる北西、南西の尾根にも段郭があります。しかし、竪堀も縄張り図には記載ありますが明瞭でない感じです。 周囲の高屋城、猪鼻城(河内城)とは比べものにならない、明瞭でしっかりした城跡です。長比城とも対峙しているわけで、京極氏系の後、浅井氏系も活用したのではないでしょうか。なお、「はっこうし」ではなく「はっこうじ」と呼ぶようようです。 2023年11月に再訪しました。前回と違う点は遺構の標柱が立てられ、石碑とは別に城址碑が立ってました。中段郭(二郭)は発掘調査をされてました。国史跡指定を目指しておいでのようです。 私は、毎年11月23日の「近江のろし駅伝」には、2004年にはここでのろしに参加しました。昔は上段の郭(主郭)の大土塁から伊吹山、上平寺城が見えてましたが、今は正面の木が育ちすぎて見ることができないです。 |
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八講師城は史料にほとんどでてこない城のようですが、ある史料に京極氏の家臣の多賀豊後守高忠が拠り、澤田民部大輔の居城とあるようです。<現地案内板より> 補則 多賀豊後守高忠は応仁の乱前後に活躍した京極持清の従兄弟です。浅井氏が織田信長と争った元亀の頃に浅井氏家臣の澤田民部少輔らが横山城を守ったとあります。この頃、八講師城は使われたんでしょうかねぇ? ただ、澤田民部大輔と少輔の関係は少し調べたけど、親子なのか一族なのかは?です。 |
2004年撮影 |
のろし駅伝は滋賀県で2002年よりされているイベントで、各城跡からののろしを 琵琶湖一周させようというものです。2004年は31城の参加があったとの事です。 |