道案内 ←登り口 ←城跡 |
彦根方面より国道21号線で来ると、梓河内の信号で右折し、すぐに名神高速のガードをくぐり集落に向かいます。ガードより1.7km先集落の一番奥、梓川の右手に中尾林道の入口があり、ここに城跡の案内板(霊仙山登山口)があり、梓川の支流を渡り山道に入ります。5分も歩くと城跡の案内板があり、右手に登ります。比高20mほど登ると、道が無くなる箇所がありますが、ここで左手へ急坂を登って行きます。尾根付近でまた道が現れ、岩場のつづれ道を尾根まで登ります。途中、岩場の虎口に見える箇所、石段の痕跡に見える箇所があります。尾根から塹壕道をどんどん登ります。塹壕(掘底道)道が終わり長い土橋になる箇所の左上に碑があります。
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訪城備忘録 |
碑のある東のピークを頂点にその北側下に広い平坦地があり、さらに西側下、北西下に広い平坦地あるいは段郭があります。ただ、これが城跡なのか、あるいは山岳寺院の跡にも見え、なんとも解釈がしにくい城跡です。登城道から登ってくる、尾根手前には岩場のつづれ道が現れ、見方によっては岩場の虎口、石段の痕跡に見える箇所もありますが、なんとも言えない感じです。尾根先端から始まる塹壕(堀切道)道も碑のある平坦地の西下を越えると長い土橋状を越え、再び塹壕道となって、中尾林道に突き当たります。この道だけがあまりに立派で、平坦地は広いだけで防御施設がありません。もし、京極の隠れ城であったとしても山上御殿を想像します。
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塹壕道
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京極氏の初期、城は一代で変わる傾向があり、累代の城がないです。佐々木定綱の子が信綱、鎌倉中期、信綱の四男の氏信は京極氏の祖となり、大平寺城を居城とします。鎌倉末期から室町初期、京極高氏(道誉)が活躍しますが、この鎌倉中期から南北朝までの間に城として機能したようです。
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