近江/ | 朽木陣屋 |
ファイルNo0706 |
@ くつきじんや |
道案内 | |||
国道367号線の朽木新本陣(道の駅)市場地区より小浜方面に750m先の山神橋の信号で右折し県道33号線に入り、300mほど先左側(上)の現郷土資料館周辺が城跡です。 |
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訪城備忘録 | |||
資料館前の公園に陣屋跡はわずかな遺構(井戸跡・堀の一部。石積み)が残るのみです。この公園の隣の森林組合敷地内で新たに井戸が見つかりました。発掘確認後は森林組合の建物が建つようです。資料館は湖西のマイナーな城の発掘写真が数箇所展示してあり、城巡りに参考になりました。 信長の隠れ岩 山神橋からさらに国道を約2kmほど行くと県道23号線との分岐点です。県道は左折ですが、この分岐点の反対側斜め右に説明板があり、ここからが信長の隠れ岩の登り口です。登り口から200mで隠れ岩と表示されています。ここは織田信長が浅井長政の離反で朝倉攻めを断念し、京都に急遽戻る際に朽木を通ったと言われますが、その際に朽木元網が甲冑姿で迎えようとしたため、朽木氏が敵か味方かを確認するまでここに潜んだ所だそうです。味方と確認できたため信長は朽木城に一泊したそうです。言ったもん勝ち?? ^^; |
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近江源氏佐々木氏庶流朽木氏の居館(居城)です。朽木氏は、鎌倉時代に佐々木信綱が朽木荘地頭職を得て、信綱の次男高信が高島氏と称し清水山城を本拠とし、高信の孫の義綱が分家して朽木氏を称し代々この地を領しました。特に朽木元網は六角氏より織田信長に従い、織田信長が元亀元年(1570年)に朝倉義景を攻めている最中に、浅井長政の裏切りによって金ケ崎にて挟み撃ちに合い退路を塞がれた時、信長を朽木から京までの道案内をしています。後に、秀吉に従い、関が原の合戦では最初西軍に付くも小早川秀秋の寝返りに呼応して東軍に寝返り、減封ではあるものの9590石余りを安堵され交代寄合旗本となり朽木城の場所に陣屋を構えました。以後、明治までこの地を領しました。元網の三男植綱は下野鹿沼にて大名となり、のちに、丹波福知山に転じます。福知山朽木氏は外様扱いではなく、植綱が徳川家光に仕えた功績により譜代扱いとなっています。 |
信長の隠れ岩 |