近江/ | 永原御殿 +永原城 |
ファイルNo0686 |
近江に残る徳川氏御殿で水口城以外ではよく残る
@ ながはらごてん |
道案内 | |||
名神高速栗東インタから国道8号線で来ると野洲市小篠原の信号で左折し300m先でJR東海道線の陸橋を越えると久野部の信号でこれを右折し県道2号線に入ります。2Km先永原の信号を越え次の江部の信号で左折し野洲北中学を越えた次の十字路を左折し200m先の右側茂みが御殿跡です。御殿跡の南側田んぼ沿いに石垣が残ります。永原城は現在の野洲北中学校を含んだ範囲とされます。(最近は上永原城が永原城だと言う説が有力のよう。) |
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訪城備忘録 | |||
以前、御殿跡はものすごい竹藪で、鳥の住処で異様であり、異臭があってとても入れませんでした。 しかし、2018年発掘調査され、現地説明会が実施され、多くの竹藪が伐採され、中に入ることができるようになりました。城域では御殿本丸の南北西の土塁が見事に残ってます。(東側は失われています。) 土塁は高さもあり、幅もあり、特に、西側土塁は一直線に200m近くの長さがあり、すごいです。なかなかの遺構と言えます。敷地内には礎石も確認できます。発掘調査後で本丸内で確認できる礎石は御亭の石列ですが、御亭は「おちん」と呼ぶようです。2階建ての小型の建物で将軍の私的空間でお茶をもてなしたりした所のようです。2018年の発掘調査で発掘された石列(今は埋め戻し)は、古御殿と呼ばれた建物の礎石のようです。さらに、西側土塁の外側、南側土塁の外側には水堀が確認でき、南側の水田の淵に基壇の石垣がわずかに確認できます。 碑は土安神社の道を挟んで反対側御殿跡寄りの大きな木の下に隠れて立っています。また、野洲市北の浄専寺には城門が移築されていますが、痛みがひどくて保存されているとは言いがたい感じです。さらに、書院が芦浦観音寺に移築されてます。(写真の一部は城友S氏より提供いただきました。) 2020年03月、伊庭御殿(東近江市/旧:能登川町)とともに国史跡に指定されました。2020年7月から2021年3月まで南之御門周辺の発掘調査が行われ、2021年3月に現地説明会がありました。南之御門は櫓門で、それの親柱跡(礎石は無くなっている)、西側の袖の石垣の一部などが確認されました。石垣は一段しか残ってませんが往時は土塁と同じ高さ(3mほど)まであったと考えられるようです。 私、今まで相当に勘違いしてました。まずは方向の間違い。そして、失われた東側土塁の位置が自身が思ってた以上にもっと東側である事、南側土塁で現状虎口のように空いている開口部は往時のものではない事など。 記述も含めて訂正します。 2023年11月、なにか遊歩道のような道を郭内に造営中だなと感じたんですが、12月に行ったら郭内の南側に残っていた竹藪部分がすべて伐採され、見通しがすごく良くなってました。北西端の土塁周辺と御殿郭内の北側部分で発掘調査が続けられている感じです。 |
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永原城は、佐々木氏の支族永原氏の居城でした。城域は御殿跡一帯から野洲北中学あたりまでとされます。(近年では上永原城が永原城であったという説が有力になっているそうです。 野洲市の資料でも上永原城を永原城と規定しています。) 永原御殿は、江戸初期に将軍上洛の宿舎として造られました。御殿は貞享三年(1686年)に幕命により廃城となり、御殿建物(書院)が芦浦観音寺に移築されました。(限定公開) 近江には徳川将軍が使った御殿が中山道側に三カ所、東海道側に一ケ所残ります。東海道側は水口城となっており、中山道側は柏原、伊庭、永原の三カ所ですが、柏原は碑がある程度、伊庭は石垣がわずかに残る程度、それに比べ永原は御殿本丸の土塁や水堀の痕跡、石垣などが残ります。徳川三代が上洛の際に使用し、家康は6度、秀忠が4度、家光が2度泊まったそうです。 |