能登 松波城



ファイルNo3297

能登守護畠山氏の支城

                            東の郭堀切

@ まつなみじょう 
  別名 

A住所:鳳珠郡能登町松浪
    旧:珠洲郡内浦町

B目標地点:松波西の信号
C形式:丘城  D比高:40m 
E現況:公園・山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・庭園・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/畠山氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2017年07月

  

道案内 

北陸高速自動車道金沢西・金沢東・金沢森本インタのいずれかで下り、「のと里山海道」を目指します。内灘町の「のと里山海道」起点とし、徳田大津ジャンクションで能越自動車道と合流、輪島市三井町の能登空港インタの信号で右折し県道303号線に入ります。ここまで起点から1時間半ほどです。県道303号線から県道26号線に入りさらに県道57号線を進みます。松波西の信号で左折します。200m先で右折し細い道に入ります。300m先で左カーブしさらに200m先で右折します。400m先が城址公園で本丸です。手前に今は使われていませんが畠山武道館があります。<あるいは、松波西を直進して県道35号線に入ります。約600m先、松波の信号で県道は右折ですが直進します。150m先を左折し道なりに行きます。>

訪城備忘録

本丸(主郭)跡まで車で登れます。本丸は今は使われていない武道館の建物があり、広場の真ん中に城址碑が建っています。東側に土塁があり、虎口の土塁のようです。往時は主郭を巡っていたと想像しますが今は虎口近くのみ残っているという感じで石積みが確認できますが、遺構かは?です。主郭から東側に段郭状に郭が展開され、進むと長細い郭が続き、低い土塁に囲まれた櫓台のような郭があり、さらにその向こうにもわりと分厚い土塁がある砲台状の郭があります。この郭の南下は大手門跡と松波庭園と呼ばれる枯山水の庭園がありますが、発掘調査中のようで全面ブルーシートがかかり立ち入り禁止です。この庭園は全国でも数少ない戦国武士の庭園遺構ということになります。(近江の京極上平寺館の庭園、越前朝倉一乗谷の庭園、飛騨の江馬下館の庭園、伊勢北畠氏庭園など) ここから堀切に架かる橋を渡り東の郭群に行きます。この堀切は廃線になった「のと鉄道」の線路が走ってました。ですから現在は深い大きな形をしていますが往時はどの程度の堀切だったんかはありますが、いずれにしても規模は大きかったんでしょう。東の郭にも城址碑があり、東端には音川亭鳳祥斎址と言う石碑が建つ郭がありますが、こちらも発掘調査のため全面ブルーシートで入れませんでした。保育園側に空堀と土塁跡、虎口跡のような箇所がありますが、どこまで遺構かは判断できませんでした。公園化されているため、遺構がある程度は破壊されているようです。城跡の南側に萬福寺があり、ここの山門は松波城の搦め手門の移築だそうです。移築って知らなかったんで山門の屋根の瓦・家紋しか撮らんかったです^^; この寺の本堂の裏手の竹林の中に畠山義親のお墓もあります。城跡は公園化でも遺構の破壊もあるでしょうけど、城跡の趣は残しています。

本丸の城址碑
歴史

文明六年(1475年)、能登守護三代で七尾城主の畠山義統が築き、三男の義智が入ったとされます。以後、松波畠山氏は義智・義成・義遠・常重・義龍・義親と六代続き、五代義龍から松波氏と称しました。六代義親は能登守護九代畠山義綱の三男で義龍の養子となり家督を継ぎました。天正四年(1576年)、上杉謙信は能登侵攻を開始、翌七年に七尾城は落城、松波城も上杉軍に包囲され義親は自刀し、松波城は落城しました。

本丸の土塁と石積み      郭の土塁   
  
本丸から続く郭と堀切状
切岸
庭園上の郭の土塁
庭園と大手門           堀切(のと鉄道跡)
東端の郭の城址碑          東端の郭と寺跡の間の堀切
東端の郭と寺跡の間の堀切            虎口?(松波保育園側)        
山門の屋根(松波城搦め手門) 萬福寺     本堂        
本丸の土塁と石積み

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