能登 勝山城



ファイルNo3032


                            主郭南下郭と土壇

@ かつやまじょう 
  別名  

A住所:鹿島郡中能登町芹川
    旧:鹿島郡鹿島町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・説明板
G時代/人物:戦国期/ー氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  35分

J撮影・訪問時期:2015年12月

  

道案内 ←登り口   ←城跡

JR七尾線良川駅が鉄道では近いですが、国道159号線(鹿島バイパス)のラピア鹿島の信号を金沢方面から来た場合は右折し県道18号線に入ります。約1.6km先の県道244号線(七尾街道)との交差点、芹川の信号を直進します。約500m先、小さな川の橋の手前を右折します。100m先右手に城の説明板があります。 (または、高岡市内の国道8号線四屋高架より国道160号線に入り氷見市内に向かいます。16Km先(氷見市中心部を過ぎます)の阿尾の信号左折し県道18号線に入ります。約21km先、芹川地区に入り、小さな橋を渡って左折します。) 

訪城記録

説明板の後ろ側、民家に沿って奥に入ると左手に墓があります。その墓を正面に右手の斜面を登ります。整備がされているとはいいがたいです。最初の尾根を登って行きます。右手に谷間、その先に別の支尾根が見えます。しばらく登ると最初の尾根と谷の向こう側の尾根が合流します。合流点の左側斜面には竪堀状になってますが、遺構ではないでしょうね。主尾根に登ると先端部に空堀のような窪みが尾根を横断する感じであります。これも遺構かは?です。ここからしっかりと登りが続きます。 明らかな郭跡、鋭い切岸などが残っています。中腹まで登るとわりと広い郭に出ます。東側に低い土塁が巡っています。その先はこの時期でもやや藪状態を抜け、一騎駈けのような細尾根を越えます。その先に東側に土塁を持つわりと大きな郭があります。この後方がわりと急な斜面で登りきると主要に入る坂虎口があります。主郭はこの上ですが、左手を廻り込むと土壇を伴う郭があり、主郭の斜面との切れ目は堀切状になってます。さらに南の尾根には行きませんでした。後で調べますと、細尾根を越えると堀切があり、その後、長い竪堀を越えると斜面に屋敷地のような段郭が続くようです。さらに南端に中央に土壇のもった郭があり、その先に小さな堀切が二条あるようです。 戻り主郭に登ります。南側に三日月状に大きな土塁がありますが、藪で見にくいです。西側に進むと一段下に副郭の大きな郭があります。山上御殿でもあったんでしょうか。その先は細い急な斜面で下り切ると小さな郭があり、その際はさらなる斜面で、ここで今回はあきらめました。 城域は広くいのですが、防御は切岸中心で明瞭な堀切、竪堀はないように感じます。土塁も主郭とその下の郭は明瞭ですが、中腹にある郭の土塁は低いものでした。整備もされていない、訪城時は縄張り図などの資料ももっていなかったため、全体像がつかめないままの訪城でした。 帰ってからネットでも調べましたが資料の少ない城です。縄張り図はたぶん「石川県城館報告書 能登T」には掲載されているのでしょうけど、手元にないため確認できません。 それから、この城には落城した事に寄る怨念の民話が残っているようです。

麓の説明板
歴史

築城時期、築城者は不明です。いずれにしても七尾畠山氏系の城のようです。ーー天文二十四年(1555年)、七尾畠山氏の内紛の際に温井氏が約2年間(永禄元年(1558年)まで)籠城したとされます。さらに、天正十二年(1584年)、佐々成政の命を受けた神保氏春を七尾城の攻撃の為に配し、家臣袋井隼人が守備したが、前田安勝ら前田勢に攻撃され落城したとされます。ーー (現地説明板より)


主郭土塁                     主郭南下堀切状

主郭西斜面から主要部を見る
城跡遠景                          主郭南下の土壇

  
最初の尾根を見る                     主尾根の先端の空堀状
低い切岸状                         高い切岸
細尾根の切岸                      緩やかな堀切状
中腹の郭と低い土塁
中腹の郭                          細尾根
主要部下の郭の土塁                       主要部下の郭
主要部への坂虎口                    主郭南下堀切状
    主郭                      主郭の西側の副郭との切岸
副郭
上から見降ろす        西側の細尾根       下から見上げる

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