美濃/ 大桑



ファイルNo0483

土岐氏の城

               山頂手前主郭

@ おおがじょう 
  別名  

A住所: 岐阜県山県市大桑〜青波
    旧:山県郡高富町
 
B目標地点:
C形式:山城  D比高:370m 
E現況:山林  居館部:宅地・畑地

F遺構等:郭・石垣・堀切・竪堀・土塁・井戸・天守モニュメント・碑・説明板
G時代/人物: 戦国期/土岐氏
H満足度:
凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  登山口から70分

  林道登城口から20分(比高130m)
J撮影・訪問時期:
2005年01月・2019年11月
  2020年01月・2023年09月
 (2023年06月)

  

道案内    ←麓登城口  ←林道登り口

東海北陸道美濃関ジャンクションから東海環状道に入り、山県インタで下りると国道258号線新道です。(まだ未完成)  国道256号新道を約200m南下した西深瀬の信号を左折し約500m先の富岡小前の信号で国道258号線に左折します。約1.6km先の伊佐美の信号を左折し県道174号線に入ります。約2.1km先で大桑市場のバス停方向に斜め右に入るか、約2.8km先の大桑小の手前(約200m手前)を右折してください。 大桑集落の一番北側の東西に伸びる道に出るまでに 何ヶ所か大桑城の標識がでますのでそれに従ってください。椿野のバス停の所から北への道に入ります。約1.3km先、(老人ホームの脇を越えて北に進み)山裾まで行くと道はT字になりますので左折してしばらく行くと登山口の駐車スペースに至ります。 T字を右に行き、林道を登ると約3km先が峠でここに駐車場付の登り口があります。

訪城備忘録

椿野というバス停(集落の北側で東西に伸びる道)から老人ホームまで の間は大桑城の城下町跡になります。 宅地と畑地になっていますがその中に四国堀と呼ばれる長さ100mほどの空堀と土塁が見事に残っていました。このあたりは大桑城の城下町にあたるとのことで、この堀は 一乗谷の城戸の如く、境界線のための堀であったようです。 四国堀は 土岐氏が四カ国に応援を頼んで築いたので四国堀というようです。越前堀は埋められています。

大桑城に登り口には「熊注意・単独行動不可・自己責任で登ってください」の但し書き・・・。そこより40分ほど登ると「番所・岩門」があります。発掘調査され、巨石の石列などが明瞭な形になりました。「馬ならしの場(馬場)」と呼ばれる郭は、左手尾根先端まで細長い郭があります。尾根先端より北側へ一段下がると明瞭な堀切があり、そこに土橋があり、土橋下は石垣にて補強されているようです。

登山道に戻りさらに上を目指します。途中見張り台のような郭のありますが、大きな郭は先ほどの郭以外にありません。尾根の斜面には大きな竪堀があったり、残存石垣があったりします。主郭に登る手前左手(北側)の斜面に段郭が続きますが、郭の斜面に石垣があるようです。反対側南の斜面を50〜60m下に井戸跡があります。距離は135m先と書いてありました。 井戸は透明度があり、いまでも飲めそうです。この井戸は露井戸(切井戸)と呼ばれています。そばの斜面には石垣もありました。井戸より再び斜面をのぼり尾根に出て、主郭へと登ります。山頂を削り込んだ削平地に石碑が建っています。山頂部には高さ3mほどの天守のミニチュアがあります。麓から見るとりっぱに見えますが、近くで見ると・・・(^_^;) 

この主郭の北側へ下りていくと(相当にきついです)堀切、片堀切などの北部遺構があります。また、主郭から東の尾根は林道の登り口に繋がっていて諸所に郭、残存石垣など見る事ができます。

麓より遺構を見ながらで1時間半の道のりでした。ここからの眺望はすばらしいです。遠くに岐阜城の天守も見えます。この日は晴天で青と白のコントラストが格別でした ここは土岐氏の守護所にもなった城ですが、山が険しいという点では岐阜城並ですが 山頂部の防御遺構は単調で、郭も狭いという印象です。

2019年11月に再訪しました。林道がしっかりとできていて、峠には登城口とパラグライダーの離陸場があり、10数台とめられる駐車場も完備してました。初訪城は雪の日であったため見ていなかった石垣の痕跡が至る所にありました。城域としては大変広く、主郭の北側下の尾根なども見学していると2時間強は要しました。ただ、前回も感じましたが、あまり技巧的な縄張りというわけでのなく、馬場と呼ばれる郭以外は小さな郭が多いなという印象です。また、遺構標識など整備され、大変ありがたいのです。

2020年01月にまた訪城しました。前回見られなかった主郭の北尾根の堀切を見てきました。冬場でも草木が邪魔でしたね。^^; 城域全体では石垣が各所で出てきています。この城、総石垣に近いのかもです。

2023年06月、桔梗塚(伝・明智光秀の墓)に行ってみました。

2023年09月、山県市市政20周年イベントに参加しました。中井先生 昇太師匠の城跡訪城とトークショーでした。 市の主催のため林道登城口から主郭までの間のみの見学でした。現地での説明とトークショーでのお話を要約してみますと、下記のような事かなと思います。

@この高さの山城は守護の城ゆえにの高さであり、国人などはもっと低いところにある。
A発掘が進められて、ぞくぞく残存石垣が発見され、総石垣に近い城であるとわかってきた。石垣は麓からも見えるようにし、権威を象徴・威圧するものとして石垣が使用されている。
ただ、この石垣を積んだ石工集団はどこの石工かは今のところ定かではない。
B堀切、土塁などや縄張はテクニカルではないのは、戦闘の城ではなく、守護の政治の城であるためで、石垣が権威を表現していると言える。
C西尾根の北谷間に展開される段郭群では、発掘調査で中央の通路に沿って石垣積みの郭が連なっていた事がわかった。陶器などの出土遺物は700点を越え、この山上に住んでいたと考えられる。中央の一直線の道は防御より権威を重んじたもので、小牧山城、安土城の大手道に通ずるかもしれないとか。
D伝台所の発掘調査では丁寧積まれた(目地が出ている)石垣、また、庭園が発見された。庭園は権力の象徴であり、山上に庭園がある城は全国的にも多くはない。なお、伝・台所、伝・天守台という名称は江戸期の絵図にあるもので、実際の郭の役割を表しているわけではない。
E岩門の発掘調査では、ここの巨石は往時には立っていた立石であり、石列になっていたと考えられる。これも権威を見せつけるもので、鏡石の原型とも言えるのでは。

林道登城口
歴史

築城時期は定かではないようです。承久の乱(1221)の以後に地頭の逸見氏が関東から入部しているようです。明応年間(1492〜1501年)に八代守護の土岐成頼の二男で九代守護の政房の弟にあたる定頼が大桑城を改修して大桑氏を名乗ったとされます。天文四年(1535年)に長良川の洪水が守護の館があった枝広(守護館は革手から福光さらに枝広に移っています。)を襲いました。土岐氏最後の美濃守護の頼芸は大桑城へ移りますが、天文十二年(1543年)に道三が大桑城を攻めます。越前朝倉氏や尾張織田氏の仲介で和議が成立しますが、天文二十一年(1552年)に再度道三が攻めて、頼芸は退去し、土岐氏は滅亡し大桑城は廃城となりました。

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霧井戸(切井戸)石垣
主郭南西下石垣
番所下(岩門)の石垣
四国堀
ミニチュア天守
主郭
現地案内板より
主郭(伝天守台)から南東下・林道からの登城道途中より支尾根へ少し外れたで登った上にある石垣
麓の駐車場から城跡
   馬場北下の堀切    露井戸(切井戸)   
  
ミニチュア天守        郭    
四国堀     山頂からの眺望
  尾根からの眺望
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