道案内 |
飯田市内から国道153号線にて松本方面へ進み、高森町の中心部を越え山吹地区に入りますと飯田線を陸橋で越えると下平駅です。ここで踏み切りを渡り田沢川沿いに山側に向かい前方に見える段丘先端を目指します。国道より500mほどで段丘下ですので、左手から段丘へ登る道を進みます。登りきると右折する細い道に入り丸山集落を進みます。領法寺前を通過し200mほど行くと右に曲がる細い道がありますがすぐ民家で車は行けません。(車はこの道より少し先、上の写真あたりで止めます)民家の横を田んぼの真ん中を進んでいく段丘先端に行ける細いコンクリート道があります。この先が城跡です。
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訪城備忘録 |
城跡入り口
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水田の中の細い道が終わると道が下ります。竹薮に入ると再び登りになります。どうも堀切のようになっている感じです。5mほど登ると道は左に進みます。左手は竹薮ですが削平地と思われます。段丘の先端は墓地になっており座光寺家歴代の墓地のようです。その中心に「座光寺家之奥津城」と刻まれ座光寺の家紋が入った石碑(石碑というより墓碑)が立ちます。上の写真のところに祠があり、その周りは石垣が巡っています。この辺が陣屋跡なんしょうか? わかりませんでした。
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堀切?
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今回訪城ではこの城跡が山吹城でいいのか山吹陣屋と同一なのかよくわかりませんでした。
伊那の豪族座光寺氏は天文二十三年(1554年)の武田信玄の伊那侵攻以降、一族の中には武田氏に属したようです。天正十年(1582年)武田氏が滅亡した後、座光寺為清は徳川家康に仕えました。為清の子為時は家康の関東移封に従います。為時は慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いに東軍として従い、その後信濃国伊那郡山吹に1150石を与えられ交代寄合旗本として明治維新まで続きました。 補) 旗本座光寺氏の家老片桐氏の文書が高森町歴史民族資料館にあるようです。
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