道案内 |
中央高速飯田インターを下り、料金所を越え右折、国道153号線を松本方面に進みます。約500m先の上殿岡の信号で右折し、次の信号で(神明公園前の信号のひとつ手前の信号)で左折します。県道444号線を約3Km進みますと道が下りになり切通しを通る感じになります。この途中に左へ鈴岡公園に上る道があります。<公園の看板が立っています。> (あるいは、国道151号線の鈴岡公園前の信号を県道444号線へ曲がり、坂を登る途中で右折して公園に入ります。)
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訪城備忘録 |
空堀
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松尾城とは谷を挟んで対峙した位置にあります。松尾城より小型ではありますが、外堀、主郭の南、西にある深く幅のある空堀、出丸との堀切などの遺構は松尾城の遺構以上に明瞭に残ります。
2017年03月、14年ぶりに再訪しました。すごく整備が進んでいましたが、二の郭が大きな児童公園になってました。しかし、主郭周囲の空堀、外堀の空堀は健在でした。出丸から松尾城も見やすくなってました。以前は気付きませんでしたが、縄張り図付き説明板も設置されたのと周囲の伐採も進んだこともあり、西側に外郭、本城と呼ばれるところ、その向こうには遠見坂と呼ばれる高台もあったんすね。遠見坂まで行ってみましたが、見張りの郭であったかもとは思えるところでした。
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空堀
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小笠原貞宗の次男宗政が築き、松尾小笠原氏から分家しました。 鈴岡小笠原氏は松尾小笠原氏から分家し惣領家小笠原氏が3家に分立しました。鈴岡小笠原氏の政秀は当初は松尾小笠原家の光康と結んでいましたが、その後、両家は争い、明応二年(1493年)、鈴岡小笠原の政秀とその子の長貞は松尾小笠原の定基に殺害されています。政秀の養子であった深志小笠原の長棟は定基を攻め、天文三年(1534年)定基は甲斐に逃れました。長棟の子の信定が鈴岡城に入りました。天文二十三年(1554年)、武田氏が伊那進攻、定基の孫の信貴に攻められ落城し、信定は下条に逃れました。 その後は松尾城の支城となりましたが、天正十八年(1590年)、徳川家康の関東移封に伴い、信貴のこの信嶺が本庄に移り、松尾城とともに廃城となりました。 <現地案内板より>
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