東三河/ 五本松城



ファイルNo0106

豊橋の豪族、西郷氏の本城

                          城址碑  

@ ごほんまつじょう 
  別名  −−−−−

A住所: 豊橋市石巻(いしまき)中山町 
B目標地点:     
C形式:平城  D比高:−−− 
E現況:田畑

F遺構等:碑
G時代/人物: 戦国期/西郷氏
H満足度:

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分


J撮影・訪問時期:2003年3月 他

  

道案内 

東名高速道豊川インタを下りて、国道151号線を豊橋方面に進み、インタから2Km先、五つ目ほどの信号の馬場町の交差点を左折し国道362号線を三ヶ日方面に進みます。2.5Km先で豊川を越え、さらに2Km先で県道81・31号線との交差の和田辻の交差点に至ります。(和田辻という交差点はこの県道との交差点より手前にもあるので注意) 県道81号線に左折し新城市方面に向かいます。3Kmほど走ると石巻萩平の信号に出ます。(あるいは近道としては、豊川ICを降りて国道151号線に出て、豊橋方面2つ目の信号の東名町1丁目(谷川町北)の信号で左折し県道499号線に入ります。1.6Km先で賀茂橋で豊川を渡り、1.2Km先の賀茂町の信号を過ぎ、道なりあと2Km先進んだ先で右折し2.1Km先で石巻萩平の信号に出られます。)
石巻萩平の信号を越え50mほど先に右手に入る道があり、これを右折し、しばらく走ると三方が山に囲まれた石巻中山地区の入口となります。道は左手の山の麓を走る道と右手方向は大きく平地となっており、田圃・畑です。その道の右手前方の山すそが城跡となります。集落を迂回して、集落の右手側に出た道ばた・田圃の隅、電柱のそばに城址碑があります。この背後の山に五本松城の物見・詰城があるようです。
 
訪城コメント

豊橋の豪族西郷氏の本城です。今は農道の三叉路の角、田圃の隅、電柱のそばに城址碑があるのみです。相当に大きな居館であったとの事でありますが、今はなにも残っていません。石巻萩平交差点の角にある西郷小学校正門には西郷氏の城郭マップと西郷氏の説明板があります。

萩平山城(鷹打砦)より
五本松城方面を望む
歴史

西郷氏は永正年間(1504〜20年)に嵩山に入り、天正十八年(1590年)に家康に従い関東(下総で五千石)に移るまでここを支配しました。(注釈:岡崎の西郷氏<一色氏守護代>とは肥後を発祥とする同族ではあると考えられますが、西郷氏が岡崎城を本拠にしている頃に信員あるいは子の正員がこの地に分流したか、肥後より別の西郷氏一族が南北朝期後にこの地に入ったか定かではないです。当初は代々 弾正左衛門を名乗っています。)正員と子の正勝は今川氏・松平氏との間で時に合わせていずれかに従い家名を存続させましたが、正勝は桶狭間の戦い以後は松平(徳川)氏に従いました。正勝は本城の五本松城に、正勝の嫡男元正は月ケ谷城に在城したようです。永禄五年(1562年)に今川氏方の宇津山城主朝比奈泰長によって攻められ落城し正勝・元正は討死しました。正勝の次男清員は岡崎城に人質としており、五本松城を奪還しました。清員は元正の嫡男の義勝を後見する形で西川城主となり、その後の数々の戦いで武功を上げました。義勝が戦死後は清員の子の家員が宗家となりました。清員の妹の娘(お愛)は家康の側室となり、秀忠を生母となりました。西郷氏は関が原の戦い以後いったん大名になりましたが、その後に不祥事があり、五千石の旗本として存続しました。 <西郷小学校前の説明板より>

西郷小学校前MAPより
  

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