尾張の城035  

                                                                               

長谷川秀一邸  1389
城址碑

北方の渡しの説明板
A一宮市北方町
 旧:葉栗郡木曽川町
B北方中学
名神高速道の一宮インタから国道22号線を岐阜方面に進みます。東海北陸自動車道の一宮木曽川インタ下から2.8km先、北方町の信号を左折し、すぐをまた左折します。200m先の中学校正門前に石碑があります。本来の居館跡は公民館の周囲だったらしいですが碑はここに持ってきたらしいです。

C平城
F遺構等:碑 
G戦国期/長谷川氏 
H満足度:凸
長谷川秀一は早くから織田信長の小姓として仕え、信長の死後は秀吉に従いました。天正十二年(1584年)に越前東郷槇島城十五万石の城主になりましたが、文禄の役の際、文禄三年(1594年)に朝鮮で病死したと伝わります。

J訪城:2006/04
  
玉の井城  1455
念敬寺

A一宮市玉の井
 旧:葉栗郡木曽川町
B念敬寺
東海北陸自動車道の一宮木曽川インタから大毛西の信号を西に向かい、県道175号線に入ります。1.5km先、内割田の信号を越え、1.2km先の外割田の信号で県道14号線を横断します。1km先の右手が念敬寺です。遺構はなにも無いようですが、感じのいいお寺でした。

C平城
F遺構等:なし
G平安・鎌倉期/岩田氏・玉の井氏 
H満足度:凸
岩田采女正居の居城と伝わり、その後、源平合戦で功のあった玉ノ井四郎が居城したとされます。信長が尾張を統一した頃には廃城であったようです。

J訪城:2006/05
   
浅井屋敷  3697 
浅井宅碑
由来説明碑
浅井長政像
A春日井市牛山町
B間内駅東側

国道41号線の花塚橋北の信号から県道451号線に入ります。約1.7km先の若草町の信号で、さらに約400m先の池田中央橋西の信号で右折します。約900m先で左折すると間内駅です。間内駅のロータリを廻って左折し線路沿いを進みます。約150m先を左折し名鉄線の踏切を越えます。約100m先の路地に左折し、さらに約100m先を左折、約100m先で右折すると間内駅の東側でここに浅井長政像や説明碑があります。 間内駅からは道が狭く、軽四適度でないと最後が入れないので間内駅西側から歩きで行かれた方がいいと思います。

C平城
F遺構等:説明碑・碑
G戦国期/浅井氏 
H満足度:凸
天正元年(1573年)、織田信長の攻撃で小谷城は落城し浅井長政が自刀します。その際、側室の八重の方は子の七郎を連れて美濃に脱出、文禄元年(天正二十年・1592年)にこの地に移り、七郎は慶安三年(1650年)にこの地で没したとされます。以後、子孫はこの地に住したものです。九代、新七氏が大正時代に藤沢市に移りました。長政の子で男子は万福丸のみというのが通説ですが、子供としては、万寿丸、及び、七郎は、伝承として残っています。

J訪城:2020年12月