西三河の城016

                                                                               

占部城うらべ  1386
この写真の集落の西端(鉄塔側)が城跡

この常夜灯の奥が城跡
A岡崎市国正町 C平城
国道23号線の西尾東のインタで下りて、県道43号線を岡崎市内方面に進み3Km先の信号で県道43号線は右折となり、500m先の中島橋西の信号で左折と進みます。(あるいは国道23号線旧道の駒場町の信号で県道42号線に曲がり岡崎市方面に進みます。3Km先の信号で左折し中島橋を渡り、中島橋西の信号で右折します。)信号から1.6Km先で新幹線を越え、さらに、1Km先の中村町の信号の200m先を左折し400m先で路地に右折し200m先右手の方向(集落の西端)周辺が城跡です。集落内には遺構らしきものは見当たりませんでした。
F遺構等:無し  G戦国期/渡辺氏  H満足度:凸
渡辺道綱が築城したとされます。五代守綱から尾張藩徳川家に仕えて。寺部城を居城としました。


渡辺半蔵守綱は天文十一年(1542年)に生まれました。(父は高綱) 渡辺氏は松平氏の譜代でしたが、守綱は、三河一向一揆では家康に背いて一向宗側に加わりました。一揆が敗北すると再び家康に従うことなり、以後、家康の配下として活躍し、槍の名手で「槍の半蔵」と呼ばれました。天正十八年(1590年)に家康が関東に移封されると武蔵の比企郡内に三千石を与えられ移りました。慶長十八年(1613年)に家康よりの直命で尾張藩の家老となり、比企郡四千石に加え、長久手、豊田寺部などを加増され合わせて一万四千石を領し、寺部城を居城としました。

J訪城:2006/04
三ケ木城  1387
民家周辺から先が城域
A 岡崎市下三ケ木町〜上三ケ木町  C平城
国道23号線の西尾東のインタで下りて、県道43号線を岡崎市内方面に進み3Km先の信号で県道43号線は右折となり、500m先の中島橋西の信号で左折と進みます。(あるいは国道23号線旧道の駒場町の信号で県道42号線に曲がり岡崎市方面に進みます。3Km先の信号で左折し中島橋を渡り、中島橋西の信号で右折します。)信号から1.6Km先で新幹線を越え、さらに、1Km先の中村町の信号の200m先を左折し1.5Km先の上三ツ木町清口の信号を左折します。500m先の上三ツ木町北島の信号で左折し300mほど進みます。この一帯が城跡です。民家周辺が微高地ですが、遺構らしきものはありませんでした。
F遺構等:無し  G戦国期/松平氏  H満足度:凸 
松平清康の弟の松平康孝が城主とされます。天文十六年(1547年)には康孝の子の康定と康孝の兄の信孝がこの城の領有で争ったとされます。

J訪城:2006/04
在家城  1388
在家集落内
A 岡崎市在家町 C平城
国道23号線の西尾東のインタで下りて、県道43号線を岡崎市内方面に進み3Km先の信号で県道43号線は右折となり、500m先の中島橋西の信号で左折と進みます。(あるいは国道23号線旧道の駒場町の信号で県道42号線に曲がり岡崎市方面に進みます。3Km先の信号で左折し中島橋を渡り、中島橋西の信号で右折します。)信号から1.6Km先で新幹線を越え、さらに、1Km先が中村町の信号、その先1.2Kmのところが高須北の信号でここで左折し県道78号線に入ります。県道はすぐにクランク状に進みますが道なりで県道を進みます。2.2Km先の在家の信号を100mほど越えた右側が養楽寺、右手集落内が城跡です。集落内を歩いて見ましたが遺構はないようです。
F遺構等:土塁  G戦国期/石川氏  H満足度:凸
石川氏の居城として伝えられます。

J訪城:2006/04
合歓木城ねむのき  0899
正願寺

慈光寺
A 岡崎市合歓木町下郷間  C平城
国道23号線中原インタを下り、県道479号線を岡崎方面に進みます。3.5Km先が東浅井町の信号、そこから、2Km先で新幹線を越えます。新幹線を越えて1.3Km先が奥屋敷の信号でここで左折し県道78号線に入ります。300m先の下青野西の信号で左折し、900m先の合歓木町屋下の信号で左折し、すぐに新幹線を越えます。500m先が合歓木町下郷間の信号で、ここを右折しますと合歓木集落で正願寺があります。この一帯が城址のはずで、資料に石碑が建っているとの事で下合歓木公民館、神明神社周辺を探して見ましたが見つかりませんでした。どうも、神明神社の裏手、新幹線の高架近くにあるようです。城跡は上合歓木公民館、神明神社の東側の字が屋敷で、この周辺のようです。合歓木町より少し離れた下青野公民館そばの慈光寺の櫓が素敵なので撮りました。この寺も三河一向一揆に関係した寺のようです。

F遺構等:無し・途中断念  G戦国期/松平氏  H満足度:凸
築城年代は定かではありません。松平宗家六代の信忠の次男信孝が、三木城へ移るまで居城したとされます。