伊賀/ | 奈垣下山甲斐守城 |
ファイルNo1838 |
@ ながきーしもやまかいのかみじょう |
道案内 ←登城口 ←城跡 | |||
国道165号線の名張市役所前から奈良県に向かって800m先、名張川(新夏見橋)の手前の夏見の信号で左折し県道691号線に入ります。200m先で右折し、夏見橋を渡り県道81号線に入ります。2.5km先、青蓮寺湖沿いを進み、弁天橋の信号で直進し県道694号線に入ります。2.8km先、布生学校前のバス停付近で左折します。<ここに周辺の史跡案内図があります。> 400m先、坂を上ったところが国津園で、左折し県道693号線に入ります。旧国津小学校を越え、1.2km先の右手、奈垣集会所のところを右折し、すぐに斜め右手へ進みます。500m先左手が奈垣国津神社で、さらに、500m先、民家の前で道がクランク状に曲がり、200m先の峠に登ります。(峠の手前に竹之垣内というコミニティバスのバス停があります。) この峠で道は左方向ですが、逆Vで右手に入り、300m先、細い道を下りて行ったところに登城口の案内板があります。この道は細く、Uターン場所も狭いため、1500cc以上の車での進入はしないほうがいいかもしれません。 (また、国道165号線夏見の信号から県道691号線を通り、1.8km先の下比奈知で県道693号線に入って、4.2km先が前述の奈垣集会所ですが、途中、県道693号線は相当に細く落石がありそうな道路です。下比奈知の先で右折し、丘の上のつつじヶ丘という大団地に迂回して進み奈垣地区に出た方がいいかもしれません。) |
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訪城備忘録 | |||
峠のところで登ってきた道から∧字状に細い道に入ります。すぐに左カーブで下り坂になってます。一応アスファルト道ですが、車の幅に余裕が無く、おまけに、道は最後は行き止まりです。少し手前にUターン用の小さな橋がかけられていますが、大きな車では入って来たくない道です。この細い道の途中に登城口はありました。古ぼけた城跡への標識が立っていました。でも、こんな案内標識は助かりますな。標識のところから山に入って行きます。少し登ると、周囲を丘陵尾根に囲まれた広範囲な平坦地に入ります。この時期(3月始め)でも草木が伸び、雑木林ですので、見通しは悪いですが、この平坦地を地元では奥屋敷と呼ぶそうです。道は平坦地の右手側尾根下から登り、尾根を進んで、左手方向の城跡に進むようになってます。尾根は藪は少なく歩きやすいです。最初に浅い堀切状、尾根に沿った堀状の窪みがありますが、遺構ではなく、林業か何かのものでしょう。この小さな堀切状を越えるとすぐに主郭を取り巻く空堀に至ります。深くで明瞭で、草木も少なく、気応えがあります。堀を越えて主郭に入りますと、広さは40*40m程度で、主郭内は少々木々はありますが、分厚くて高い土塁は明瞭で、虎口も明瞭です。主郭の西側は堀というよ帯郭状の細長い郭が南北にあります。北側の少し下には、平坦度合いが甘いのですが、広めの郭状の箇所がありました。基本は単郭方形の城ですが、見易さからはこの周辺では見学のしやすい城でお勧めの城です。ただ、山深く、道は狭く、来るのが大変・・・^^; |
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応仁年間(1467〜69年)に足利氏の家臣の下山八郎重定が奈垣に住んで伊賀守と名乗り、永正三年(1506年)に重澄の嫡男の重信が比奈知に新城を築城し、三男の甲斐守重長が奈垣に住したと伝わります。あるいは、下山氏はこの地の土豪で、北畠氏に仕えて勢力範囲を拡大し、天正年間初め(1573年〜)に下比奈知に新城を築いたされます。天正七年(1579年)の第一次天正伊賀の乱の際には、織田信雄に加担したとされ、史料には伊賀側に生け捕りにされたともあります。下山氏は下比奈知の下山甲斐守城を出て、奈垣に引いたとされます。天正九年(1581年)の第二次天正伊賀の乱では伊賀の土豪と共に戦い、討死したともされます。いずれにしても諸説があるようす。 |
近くの城・関連の城:(下比奈知)下山甲斐守城