道案内 ←森側登り口 ←殿側登り口 ←城跡 |
東名阪道亀山インターで下り、すぐの太岡寺町の信号から国道1号線を四日市・鈴鹿方面を進みます。約5km先、側道に入り、羽若町の信号を左折し県道302号線に入ります。約4.5km先、野登橋北詰の信号で右折し県道637号線に入ります。400m先で東名阪道のガードをくぐり、約1.8km先(国道306号線の八島橋東詰の信号の200m手前)を左折、森側登り口は細道に入り150m先を左折、100m先が少し広くなっているので車1台は停められるかなという場所(農繁期には遠慮しましょう)から説明板がある山の入り口に向かいます。殿側登り口はこの田んぼの中の細道を600m進んだ左手に登城口(標識有)があります。
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訪城備忘録 |
2017年07月に2001年10月、2004年以来の訪城でした。以前はなんか城跡感覚がなかったんですが、今回はしっかり見てきました。森側から入り、殿側に抜けました。(車の方はこの逆で殿側から入り森側に出て戻る方がいいでしょうね) さて、城跡ですが、森側から入る麓に説明板と鳥観図があります。ここから少し登り、山の左側裾沿いを歩きます。右手上は二の郭です。本丸への標識の所から右手に登ると主郭の坂虎口に至ります。登ると左手が土塁状が長く続いてます、右手は真ん中に窪みが続いていて不思議な地形ですがその先に平坦地があります。土塁状を進むと伝天守台という郭に至ります。ここの手前にコの字の土塁、天守台手前に堀と土橋があります。さらに奥に進むと尾根先端に櫓台と標識のある郭に至ります。戻り、坂虎口手前から左手の道を進みます。主要部の西下を進むことになります。途中平坦地があり、低い土塁巡ると思えるところもあります。主要部と北側郭群の間に幅のある堀切状の地形がありますが、藪で入れませんが、縄張り図で見ると郭のようです。これより、枡形虎口と表記のある城道を北郭群の西から北側沿いを進む感じです。最後に左へ90度折れのところは確かに枡形という感じです。これより北東に進むと左手に独立郭があります。ここの虎口は完全な枡形虎口でそれも大きいです。南側から西側へ空堀もあるように見えます。郭内も大きく土塁も巡り、館の雰囲気です。さらに少し下りると「かんざし井戸」です。よく城跡にある悲劇のお話のある井戸で、ここは落城時に奥方が城主よりいただいたかんざしをつけ、琴をもって入水自害したとされ、毎年3月15日の夜には悲しい琴の音が井戸の底から聞こえるという逸話があるようです。井戸から墓地を過ぎ、林道のような道を歩いていくと殿側登城道に出ます。
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森側から主郭への登り口
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正平年間(1346〜70年)に関盛忠の五男の政実が築城し峯氏と称しました。峯氏は六代続き、峯八郎四郎盛祐が天正二年(1574年)に戦死、神戸信孝の臣、岡本下野守良勝<宗憲>が入りました。天正十一年(1573年)、賤ケ岳の戦いの前哨戦で滝川一益の臣、滝川儀大夫益重が攻めて入城、その後、羽柴(豊臣)秀吉に攻められ開城、織田信雄の臣、佐久間正勝が入りました。天正十二年(1574年)、小牧長久手の戦いの前哨戦で羽柴軍に攻められ落城しました。天正十八年(1590年)、岡本良勝が亀山城に移り廃城になりました。
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