伊勢 | 亀山城 亀山古城 |
ファイルNo1111 |
@ かめやまじょう |
道案内 | |||
東名阪道亀山インターで下り、国道1号線を四日市・鈴鹿方面に入ります。すぐの太岡寺町の信号で右折し県道565号線に入り、市街地に向かいます。約4km先の右手亀山駅付近で斜め左に入りすぐの南崎の信号を左折します。約500m先左手が亀山公園で城跡です。 古城は亀山公園を通り抜けるとT字でこれを右折し県道647号線に入ります。150m先を右折(せまいかも)、あるいは、その10m先の路地(逆V字)に右折した20m先の空き地に城址碑と説明板があります。 |
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訪城備忘録 | |||
主要城域の大半が破壊され市街地、公園になっています。本丸天守台の南面・東面石垣のみはよく残り、江戸期に天守台跡に建てられた多聞櫓が現存しています。<記述は「多聞櫓」と書いていますが、亀山城の場合は江戸期は「多門櫓」と記述されていたようです。> 多聞櫓は江戸期は武具庫、明治期は工場として使用されたようで、傷みがひどかったため、多聞櫓は下見板張りでの応急修理の状態で長く保存されていましたが、平成二十五年(2013年)に江戸期の漆喰の櫓に戻されました。 江戸初期に天守は取り壊されたため、天守代用であった御三階櫓がありましたが、今は本丸(ますみ児童公園)の北側に碑があるだけです。本丸の東側は二の丸ですが、今は大半が小学校の敷地です。しかし、北側端の小学校のフェン沿いの外側にわずかに手付かず部分があり、説明板と二の丸御殿の礎石が残ります。この下へ埋め門跡があり、埋め門の側面に残存石垣がある感じです。下りると二の丸帯郭とされ、土塀が復元されてます。夏場に行くと草ぼうぼうでした。(笑) 亀山古城(若山城)は、関氏の時代の城で、地表に明確な遺構は見えませんが、発掘調査では江戸期の遺構の下などに戦国期以前の遺構が現れるとのことです。以前は住宅地の背後の小高い丘は草ぼうぼうでしたが、ある程度草刈りしてあり、なんとなく城跡っぽくなってました。 なお、市内西町の遍照寺には二の丸御殿の玄関と式台の一部が移築されているとの事です。 さらに、近世亀山城の本丸と二の丸の間にあった(現在の亀山市役所の西側くらいの場所)石坂門の石垣が亀山歴史博物館の入り口近くに移設復元されています。 |
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文永二年(1265年)、伊勢平氏の流れの関左近将監実忠によって築かれ、以後、関氏累代の城であったのが古城です。元亀四年(1573年)、関盛信は織田信長に追放され、この地は神戸信孝の所領になります。天正十一年(1573年)、本能寺の変後の小牧長久手前哨戦で羽柴(豊臣)秀吉に落とされ、関盛信の子の関一政が一時城主になりました。 天正十八年(1590年)、岡本良勝<宗憲>が入り、新たな亀山城を築城しました。良勝は関ケ原の戦いで西軍に属したため改易となり、慶長九年(1604年)には関一政が復帰したものの慶長十五年(1610年)には移封され、その後も、江戸初期から中期前半までは城主が目まぐるしく交代しました。延享元年(1744年)に石川総慶が入封以降、石川氏が十一代続き明治維新まで続きました。なお、寛永九年(1632年)、丹波亀山城の修築を幕府より命じられた堀尾忠晴は間違えて伊勢亀山城の天守を解体してしまったと言われてますが定かではないようです。さらに正保年間(1644年から48年)に時の城主、本多俊次が天守跡に現在の多門櫓が建てました。 |
修復前の多聞櫓 |
亀山古城 亀山市若山町 (歴史博物館の下) 別名:若山城 訪城時期:2017年07月 |
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