道案内 |
西名阪国道(国道25号線)の五月橋インタを下り、左折し国道25号線(一般道)に入ります。約1.6km先、診療所前バス停付近で左折し県道80号線に入ります。約3km先で左折し広瀬地区に向かいます。約1.3km先右手が名張川に架かる広瀬橋です。橋から200mくらいの右手道路沿いに路駐して左側の細道を進みます。山に向かっている道を登っていくと集落が切れた一番上の所に(山中に入る直前)「山城入口 100m先」の標識が立ってます。昔、民家があったところが基礎だけになっている前に立ってます。ここから細道を約100m進んだところの左側細道を登ります。二つ目の「山城入口」の標識があります。50mほど進むと広い平坦地に出ます。正面が城山の斜面ですが、登るのは一番左手の裾、巨石がある箇所から取り付きます。右手に登っていくとすぐに遺構が現れます。
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訪城備忘録 |
2020年に登り方が分からず断念しました。2023年に再挑戦でした。驚くほど明瞭な遺構が残っていて、他のサイトを見ると最近城域は整備された感じがします。
二つ目の案内標識から少し登ると、削平度は無いですが広い平坦地に出ます。昔、花崗岩の砕石をしていたとの事でしたのでそれの作業場だったんでしょうかね。正面に山への斜面がありますが、急なため、まっすぐには登れません。左手にある巨石の裏手の筋から上の巨石の横を通って右方向に登って行くとすぐに遺構が現れます。 基本は麓の上に大きな平坦地が主郭で、ここは主尾根を削り込んで作られた平坦地で、両サイドが削り残した斜面が残り、その外側にさらに遺構があるという感じです。
巨石の所から少し登るとすぐに主郭から見て西支尾根の南下に横たわる横堀、それに繋がる明瞭な竪堀があります。この横堀は支尾根にある二つの堀切に連結していました。二つの堀切ともに明瞭で大変綺麗な形をした堀切です。横堀とは反対側に竪堀として落ちてました。この一連の構造は面白いです。
支尾根から少し上に主郭があります。主尾根を削り込んだ広い削平地でした。両サイドは削り残しの急斜面が残り、背後は上の尾根先端まで20mほどあるかなという感じで非常に高いです。三方は囲まれていますが、東側前面は開放されている状態です。ここに二条の竪堀状の落ち込みがあり、二つの間には石積み?と思われる石がありました。資料では石列が主郭の西側にあると書いてありましたが気づきませんでした。
主郭の北東端に低土塁の囲む直径3mほどの空間があります。庭園の池?、後世の造作でしょうか?その後方、には北東に落ちる堀切と竪堀、左手は尾根先端郭の背後の堀切から繋がる横堀、竪堀、竪土塁が下ってきています。 こちらも面白い構造です。
主郭の西側の斜面を登り主尾根の上の遺構に向かいます。尾根先端に近くなると小郭の跡か?数段あり、主郭の背後の上(先端郭の下)には削平が甘いですが三日月型の郭があります。主尾根先端郭は土塁もなく小さなものです。この先端郭の背後にその背後の頂部郭との間に深くて大きな大堀切があります。この大堀切、東側で落ちて行きながら90度曲がり、先端郭の下を通ってさらに竪堀となって主郭の北東下まで落ちています。さきほどの主郭北東側の堀切の所に繋がります。
頂部郭も小規模な長方形のような郭で土塁もありません。この背後には箱掘状の堀切があります。底部に段差がある堀切ですが、後世の造作だろうか?。いずれにしても背後の尾根を切断するための堀切はあったのかなとは思います。
主郭周辺は伊賀・甲賀・奈良の宇陀にある感じの形態で、尾根先端、または、小山を削り込んで、三方を削り残しの土塁を残すと言う形の城館はこの地帯にはよくある形態とは思いますが、主尾根を削り込んで、背後はものすごい高く、その主尾根の背後にも複数の堀切や郭を設けているし、大堀切は横堀に連結、さらに竪堀、竪土塁として主郭横まで比高で約20m落ちているなど、特異な形です。とっても面白い城跡でした。
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広瀬橋から城跡遠望
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築城時期、築城者は不明のようです。この土地は長く興福寺領であったようです。 伊賀は、天正九年(1581年)の第二次伊賀天正の乱で織田信長に平定されましたが、奈良とは言え、伊賀に隣接したこの地は筒井順慶の支配となったようで、筒井氏の家臣の奥田氏が領したとの事です。
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