大和 | 吐田館 |
ファイルNo2282 |
@ はんだやかた |
道案内 ←館 ←山城 | |||
大和高田市の国道24号線と国道166号線の交わる東室の信号から国道24号線を南下します。5km先、御所駅南の信号で右折し県道213号に入ります。櫛羅東の信号で直進し県道30号線になります。櫛羅の信号で左折し、県道30号線新道に入ります。2.8km先バス停そばで左手に下ります。右折してガードをくぐった先が一言主神社の鳥居です。館跡は、県道30号線を神社入口から300m先の名柄の信号で左折し、200m先の豊田の信号で再度左折し、200m進んだ右手水田が館跡です。中村家住宅は豊田の信号で右折し、750m進んだ右手です。 |
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訪城備忘録 | |||
「いちごんさん」の参道、田園の中は彼岸花が咲き誇り、大変綺麗でした。吐田館は集落の北側の田園です。ちょうど稲刈りをなさっていたので、田んぼの東端から見回すだけにしました。水堀は西側の方が綺麗に見えるようです。詰城である山城の吐田城はこの時は断念しあmしたが、2018年01月に訪城しました。 |
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吐田氏は鎌倉期にはその名が見え、南北朝期には南朝方として活動しました。応仁の乱の頃には越智氏・古市氏方にあり、筒井氏と対立したようです。明応六年(1497年)には筒井順盛に攻められ落城、敗走しましたが、筒井氏と越智氏の和睦もあり、吐田氏は戻りました。永正三年(1506年)の大和国人一揆の際、国判衆十二氏の一人でもありました。その後も、必ずしも筒井順慶には従わなかったとされ、天正九年(1581年)、吐田遠隆は、織田信長の命で郡山城にて筒井順慶の手で謀殺され、吐田氏は滅ぼされたようです。 中村家住宅は吐田城主の吐田越前守の子孫の中村正勝が慶長年間(〜1615年)に建てた代官屋敷とされます。 一言主神社は「いちごんさん」と呼ばれ、「悪事も一言、善事も一言、言い放つ神」と言われ、願い事を一言だけかなえてくれるらしい |
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