奈良の城002  

                                                                               

十市城  2279
城址碑
A橿原市十市町
B

国道24号線十市町の信号の北東m十市町集落の北側外れに石碑はあります。

C平城
F遺構等:碑
G室町期/十市氏 
H満足度:凸
築城時期は定かでは無いようですが、筒井氏、越智氏に次ぐ国人の十市氏の本城でした。永正二年(1505年)からの大和国人一揆では国判衆として活躍しました。十市遠忠は筒井氏(順興・順昭・順慶)に従い、天文十年(1541年)頃に龍王山城を築城し、十市氏の全盛期であったとされます。天文十四年(1545年)に遠忠が九死し、十市遠勝の代になると松永氏と筒井氏の間で急速に衰えました。永禄十一年(1568年)には松永氏方の秋山氏に攻められ龍王山城が落城、十市城に拠るも、永禄十二年(1569年)に遠勝が急死し、嫡流は断絶しました。この後、家臣は跡継ぎ養子問題で松永派と筒井派で争い、さらに衰退し、遠忠の次男の十市常陸介遠長は筒井氏に従いますが、天正三年(1575年)には松永久通に攻められ落城し城を失いました。天正十三年(1585年)、筒井定次の伊賀転封後は豊臣秀長に仕えたとされますが、天正十九年(1591年)、秀長家断絶後は没落したようです。

J訪城:2009/09
   

大和高田城 2280
城址碑と説明板
A大和高田市旭北町
B片塩小学校 常光寺
国道165号線、今里の信号で北側に進み、100m先の旭北町の信号を直進、400m先のJR桜井線の踏み切り手前を左折し、道なりに片塩小学校の正門まで行き、正門横の公園に石碑があります。

C平城
F遺構等:碑・説明板 
G室町期/当麻氏(高田氏) 
H満足度:凸
永享四年(1432年)に高田当麻為貞が築城しました。當麻為長の代に天正八年(1580年)み織田信長の命で筒井順慶によって所領を没収されました。

J訪城:2009/09


万歳平城 3220
説明板
土手にある竹藪(土壇がある?)
@まんざいへいじょう  
  別名 万歳城
A大和高田市市場 
B金勝寺・名倉北池・春日若宮神社・高田西中
   
西名阪道の香芝インタから香芝インタ上中の信号を右折し国道168号線に入ります。約2.2km先の北今市3丁目西の信号で右折し県道105号線(中央幹線)に入ります。約3.5km先の穴虫西の信号で左折し国道165号線に入ります。約5.5km先の當麻寺の信号で左折します。約2.5km先、高田西中手前約100mのところで左折します。約250m先で道が右クランク上になり、約100m先左が金勝寺です。
遺構は残っていません。と言いながら、池の竹藪内に土壇があるようですが、竹が密集していて入れません。高田西中側に説明板があります。

C平城  
D比高:ーm 
E現況:神社・住宅地・田畑 
Fほぼ消滅(土壇?)・説明板

G−−期/万歳氏 
H満足度:凸
築城時期は不明ですが万歳氏の居館のようです。万歳氏は古代氏族の末裔とされます。室町初期、この地(平田荘)の八荘官(万歳氏以外に岡氏、布施氏まど)のひとりとされ、万歳郷の領主で、平時の居館がここだったようです。詰めの城として万歳山城がありました。天正八年(1580年)、織田信長の大和一国一城令で廃城になったようです。

J訪城:2017/03