紀伊 | 安宅勝山城 |
ファイルNo3364 |
① あたぎかつやまじょう |
道案内 | |||
紀勢自動車道の日置川インタを下り、信号を左折し県道37号線を進みます。約1km先を右折し安宅橋を渡ります。200m先がT字交差点で、ここを右折します。川沿いを約800m進むと左カーブで200m先で右折し橋を渡り、約600m先、塩野集落に入る道に「勝山城」の標識がありますので、そこに左折します。約100m先の左手奥が神社で角に「勝山城」の説明板があります(車の場合はここに停めます)。ここからさらに進むと次の「勝山城」の標識があり右に進むます。200m先くらいに水路を渡る鉄板があり、ここを渡ります。(朽ちた「勝山城」の標識がありました。元は果樹園の斜面を左側(北側)の果樹園用のレールに沿って斜面を登ります。(相当に荒れてます)中腹で左の方に行くと果樹園を越えたところに細い道が城跡へと続いています。<間違って果樹園をどんどん登ったら、植林内に入って(果樹園用の石垣はまだまだ尾根に向かって続いてますが)すぐに左方向に進む小道があり、その道を進むと果樹園中間からの道に合流します。> 尾根手前に「勝山城」の標識があり、ここを進むと城跡です。<尾根まで登ってしまったら左手へ尾根上を登って行くと城跡です。> 【一応、このページの下に道順写真を掲載します】 |
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訪城備忘録 | |||
安宅八幡城のように戦国後期の改修はなさそうで、安宅氏の城がそのまま残っているちう事のようです。なんといってもこの城跡の見所は北の五重堀切と南の三重堀切です。 南側尾根から城跡に向かいますと南の三重堀切に至ります。幅のある尾根に綺麗な円弧を描いた堀切でそこから落ちる竪堀は長く深く明瞭です。三重堀切を越えると右手にL字の堀のようなものがあります。その先の斜面に2条か3条の畝堀状になっているように見えますが遺構図には描かれてません。この下に井戸跡があったようですが見えません。副郭は東西南に土塁が巡り北側は高い切岸で上は主郭です。副郭土塁には一部石積みの痕跡が残り、西側には虎口跡も認められます。主郭は頂部に位置し周囲を土塁が巡ります。主郭北側(正確には北東側)下にこの城跡の最大の見所である五重の堀切が尾根上にあります。岩盤を削り込んで、かつ、補強の石垣もあります。荒々しい姿が今も健在という感じです。堀切から落ちる竪堀も麓を走る車が見えるくらいに長く延びていて明瞭です。 この尾根をどんどん行くと(さらに比高100m登る)古武の関(古武之森城)という城跡もあるようですが、相当に遠いようなので諦めました。 主郭の西下支尾根には直下に竪堀と小郭が数段と先端に堀切があるだけです。南尾根、北尾根のように尾根が繋がっているわけではないことと、こちら側は安宅荘の内側ですから、そう防御は考えなくていいのでしょうね。この城跡はまさに戦国の城であり、堀切の多様で防御するというもので、八幡山城の横堀多様とはやや時代が違う感じはします。逆に串本町の虎松山城やすさみ町の神田城などと同様に尾根を連続堀切で遮断するという共通性を感じます。 |
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築城時期、築城者は定かでは無いですが、安宅氏であることは間違いないでしょう。安宅氏は鎌倉末期に鎌倉幕府の命により熊野海賊制圧の命を受け阿波より移ったとされます。安宅氏は元々は小笠原氏系のようで、この地を安宅と自らも安宅氏を名乗ったようです。安宅本城を中心に安宅八幡山城などとともに本城守る支城群として機能したようです。特にこの地区では一番の高所にあり、縄張りもすさみ町方面からの攻撃を想定したものです。さらに、海上の監視も担ったと思われます。大永六年(1526年)、時の当主の実俊が死去し、嫡男の安定が幼かったため、弟の定俊が家督を継ぎましたが、1500年代初期<享禄年間(1528~32年)>、安定が長じても定俊は家督を譲らなかったため安定と定俊の間でお家騒動となり、安定派は勝山城に籠り八幡山城の定俊派と争ったようです。安定派が勝利しますが、これ以後、安宅氏の勢力は衰退したようです。勝山城は八幡山城に比べ堀切は多用されますが、横堀はあまり発達しておらず、内紛終結以後に廃城になっているのではないかと思います。 |
道案内 |
近くの城・関連の城:安宅八幡山城