道案内 |
紀勢自動車道の日置川インタを下り、信号を左折し県道37号線を進みます。約1km先を右折し安宅橋を渡ります。200m先がT字交差点で、ここを左折します。正面の右手山が城跡です。300m先を逆Vで右折し、50m先左手が安宅八幡神社、右手の高架下が八幡神社の駐車場です。 八幡神社を正面に左手山裾に説明板があり、そこより登ります。城跡はこの地区の津波避難場所になっており、主郭までルートが整備されています。説明板には縄張り図がイラストの感じで描かれています。神社の横の集会所に本のコピーと思われる縄張り図が貼られてます。安宅勝山城の縄張り図や他の説明とともに判りがいいんですが、出元がわからないので、このページでは掲載しません。
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訪城備忘録 |
神社横より整備された道が続いています。西の麓から主郭を目指す感じです。 中腹まで登ると最初の横堀です。真ん中に上に登る坂土橋になってます。北側の横堀は北端で行き止まり、南側の横堀は主要部の中間堀の下までと南端の岩盤の堀切と二股に分かれて続いています。坂虎口を登って行くと主郭下の二の郭に至ります。この郭は幅もありますが、南北に伸びていて、さらに南側で主郭に沿ってL字に曲がり、主郭から繋がる尾根を大土塁としているところまであります。二の郭と主郭は比高差でまだ20m以上はあるかな。二の郭の北側土塁には石積みも残ってます。この土塁の主郭側上にはもう一つ土塁に囲まれた郭というより堀に近いエリアがあります。主郭の北側直下に位置した場所でさらに北側にある堀、岩盤の堀切を見下ろす位置にあります。先ほどの二の郭の北側土塁から北側下に降りると最初の横堀の北側下から北側の岩盤堀切までの長く深い空堀が繋がっています。この堀と岩盤の堀切で主要部は完全に尾根と分断されています。それでも心配なんでしょうか、岩盤の堀切の北側尾根に深い竪堀が西側に落ちています。この竪堀も頂部は岩盤でした。さきほどの岩盤の堀切から主郭北側直下の土塁囲みの郭?or堀までは10mほど有る感じです。 主郭は楕円形で周囲を土塁が巡る大きな郭です。北側には安宅氏の内紛で敗れた安宅定俊を祀る祠があります。虎口は二の郭から登ってきた西側と搦め手の北東端(祠のそば)と南側の大土塁へ下りる南東の三か所のようです。南東の虎口下は比高で5mほどありようです。土橋がわずかに名残があります。この大土塁は二の郭を造営する際に尾根を削り残して造られた感じです。ですから非常に幅が有、土塁というより郭の感じです。その南側に堀切があり、三の郭と隔ててます。この堀切は西側に空堀が続いていますが、この堀も途中で障壁があり、二の郭と三の郭をつなぐ土橋になってます。三の郭はやはり東側の尾根上は大土塁として残され、西側に土塁に囲まれた郭です。ただ、郭内は斜面できちんと削平されているというものではありません。三の郭の南端はまた岩盤の堀切で、これに最初の横堀が繋がってます。堀の使い方が巧みというか特異です。堀切も北側、中間、南側と規模の大きなものでした。 なかなか他では見ない堀の使い方で大変興味深い城跡でした。南紀白浜まで行きながら、温泉なし、お魚も食さず、パンダも無しのただただ城巡りでしたが、いい城でした。
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登り口説明板
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築城時期、築城者は定かでは無いですが安宅氏であることは間違いないでしょう。安宅氏は鎌倉末期に鎌倉幕府の命により熊野海賊制圧の命を受け阿波より移ったとされます。安宅氏は元々は小笠原氏系のようで、この地を安宅と自らも安宅氏を名乗ったようです。安宅本城を中心に安宅勝山城、安宅大野城などとともに本城の詰め城として機能したようです。廃城時期も定かでは無く、1500年代初期<享禄年間(1528〜32年)>には安宅氏の勢力はお家騒動で衰退していますので、この頃にはいったん廃城の可能性がありますが、遺構からは天正十三年(1585年)頃とも言われているようです。
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