但馬 | 此隅山城 |
ファイルNo2803 |
@ このすみやまじょう |
道案内 ←城跡 【 】←登城口 | |||
舞鶴若狭自動車道の福知山インタで下り、国道9号線を市内に向かいます。15Km先、野花の信号で右折し国道426号線に入ります。約28km先、出合のT字信号で国道426号線は左折します。 (ちなみに右折は国道428号線です。) 10km乙女橋の信号です。出石中心部は右折ですが直進します。約4km先の鶴山橋の信号で右折し県道2号線に入ります300m先で橋を渡り、渡ると右折です。400m先の出石農協前で左折し県道706号線に入ります。約4km先右手が「豊岡市いずし古代学習館」です。 |
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訪城備忘録 | |||
2013年に初めて登りましたが、この時は北尾根から主郭程度までしか行っておらず、藪・草木も多いため面白みのない城跡と思ってました。今回(2019年)、専門家の解説を聞きながらほぼ全域を巡りました。但馬最大の城域というだけあって広かったというのがまずは印象です。 豊岡いずし古代学習館の裏手の城址碑と説明板のところから登ります。 北尾根・西尾根・主郭 北尾根を主郭に南に向かって登って行きます。この尾根にも小さな堀切などが残ります。北尾根の根元には大堀切が残ります。ここを越えると東西の尾根に登り東側に登って行くと主郭ですが、西側(右手)へ進むと明瞭に土塁が残る郭があります。この先にはピークがあり、さらにその先に郭があり今は展望台と言ってますが主郭ほど見通しは良くないですね。 戻って、主郭に向かって登りますが、登り始めの右手に竪堀形状があり、ここは専門家からは大手筋であろうとのことです。主郭は年1回の地元の方の整備で草刈りされ見通しが良くなっています。長い大土塁が横たわっています。主郭の南側一段下に巨石があり岩屋との事です。 千畳敷・宗鏡寺砦 ここから南の尾根の遊歩道から別れ、西側斜面を段郭沿いに下りていくと千畳敷です。段郭、千畳敷背後も切岸はわりと高いものでした。千畳敷から南側に行くと宗鏡寺砦です。砦主郭の背後は二重堀切になっていて手前の堀切は深くて明瞭です。資料によればこの堀切は南側麓からこの堀切を越えて千畳敷、御屋敷に通じる道であったようで、さらに、ここの遺構は此隅山城時代だけでなく、有子山城時代の出城として改修されたようです。堀切と砦主郭の間は高い土塁となっていて櫓台です。堀切から南の落ちる竪堀沿いに竪土塁が残ってました。いったん、この竪土塁を下りて墓地まで下り、再び、墓地背後から南尾根を登ります。 南尾根・北東尾根 元々遊歩道があったようですが木の階段は朽ちて道が消えていました。中腹に大きな郭がありました。いったん主郭に戻り、北東の尾根に向かって下りました。ここも昔は遊歩道として整備されたようですが今は道が消えてしまっています。 基本的には段郭が続いているという感じです。切岸は高いです。途中で尾根が三又に分かれますが東側尾根先端にはコの字と言うかロの字に土塁に囲まれています。障子堀のようにも見えますが、通路を狭くしている細工との事のようです。真ん中の尾根先端近くには堀切もあります。三又の北側尾根は袴狭口からの遊歩道になってます。中腹には大きな郭と背後に堀切状の地形が残ります。 もう少し遊歩道が整備維持されておればよかったなとは思いますが、全域廻って前回の印象が覆されました。 |
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応安五年(1372年)・文中年間(1372〜74年)に山名時義が築城したとされます。山名氏は新田氏系で現在の高崎市山名町を発祥とします。至徳元年(1384年)には時義は国内66ケ国中11ケ国の守護となり、「六分の一殿」と呼ばれました。応仁の乱の際、時義の孫の山名持豊(宗全)は西軍の総大将として戦います。その後、政豊ー致豊と続きますが、赤松氏との抗争、家臣団の自立などあり、衰退を辿ります。山名祐豊の時代には但馬・因幡まで勢力を盛り返し、此隅山城を大改修したとされます。しかし、永禄十二年(1569年)には織田信長勢の羽柴秀吉に攻められ落城し祐豊は堺に逃れました。織田信長に臣従することで、元亀元年(1570年)に但馬に復帰しますが、天正二年(1574年)に有子山城を築城し此隅山城は廃城になりました。なお、麓近くの宗鏡寺砦は有子山城時代に出城として改修されたようです。 |
千畳敷までの段郭遺構 |
宗鏡寺砦遺構(すきょうじ) |
南尾根遺構 |
北東尾根遺構 |
近くの城・関連の城:有子山城