但馬 / 有子山城



ファイルNo2802

主要部は石垣の城、尾根は圧巻の堀切が残る城

            三の郭石垣

@ ありこやまじょう 
  別名 有子城 

A住所:豊岡市出石町伊木
    旧:出石郡出石町
B目標地点:

C形式:山城  D比高:350m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀切・竪堀・碑・説明板 
G時代/人物:戦国期/山名氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  出石城稲荷郭から50分
J撮影・訪問時期:2013年05月・2019年04月

  

道案内 

舞鶴若狭自動車道の福知山インタで下り、国道9号線を市内に向かいます。15Km先、野花の信号で右折し国道426号線に入ります。約28km先、出合のT字信号で国道426号線は左折します。 (ちなみに右折は国道428号線です。) 10km乙女橋の信号で右折、2.2km先を右折すると出石城前です。

訪城備忘録

出石城本丸の上、稲荷郭への鳥居がある石段の最後に有子山城の石碑があります。ここより登ります。標識の表記では本丸まで980mとなってます。 岩場の急坂の支尾根の道を登って行きます。息も絶え絶えという状態で残り500mという地点で明瞭な堀切と土橋があります。 本当にここまでがきつい^^; 土橋を越えてもう少し登ると左手に段郭が見れます。道は平坦になり右手を進みます。途中、斜面に石垣がある急斜面がありますが、水の手郭のようです。 さらに進むと右手に段郭群、左手に登ると主要部になります。 段郭群の先には大堀切が北東尾根2条、西尾根1条残ります。主要部は6の郭から主郭まで石垣の城です。荒々しい野面積みの石垣になってます。そう高石垣ではないですが、3の郭の長い石垣は圧巻です。 主郭と千畳敷(侍屋敷)の間に大きな堀切になっており、これは堀切と言うより谷のような感じです。千畳敷はこんな山上でありながら、ものすごく広い郭で、よく見ると建物(築地塀)の基壇だろうか石垣や石畳の痕跡が認められます。主郭の東屋からは出石の町が一望できます。

2019年04月訪城
6年ぶりの訪城でした。今回は専門家に解説をいただきながらの訪城でした。前回は主郭周囲と千畳敷程度しか行ってませんでしたが、尾根の堀切などを丹念に廻りました。各尾根にある堀切はどれも巨大で圧巻です。山名氏のこの城の前の本拠地であり此隅山城とは築城プランがまったく異なったものでした。此隅山城を落とされたので、ここまで防備したくなったんでしょうかね。その後、主要部は織豊系の改修を受けて石垣の城になったんでしょうけど、桝形虎口などの高度な技法は無い感じです。現在、崩落防止で石垣に金網のネットが張り巡りされていたり、斜面に養生用のシートが張られていたりでやや景観が悪くはなっています。ただ、時期もあるでしょうけど、千畳敷や大堀切は草刈り等されたんでしょうけど大変見やすくなってました。

主郭
歴史

天正二年(1574年)、山名祐豊が築城しました。山名氏は代々、此隅山城を本拠としていましたが、永禄十二年(1569年)に羽柴秀吉に攻められ落城しました。その後、祐豊は織田方に降だり、あらたに有子山城を築いて本拠としたものです。 天正八年(1580年)に山名氏は毛利氏に通じて織田氏に背いたため、有子山城は織田勢に攻められ落城し、山名氏は滅亡しました。 有子山城は前野氏を経て、文禄四年(1595年)に小出吉政が五万三千石で入封、慶長九年(1604年)、小出吉英が山上部分を廃し、麓部分のみ残して出石城としました。なお、此隅山城が別名/子盗城であったため、この城は有子と名付けられたようです。

もっと有子山城・詳細写真 2019年04月訪城写真 ⇒ ☆☆
二の郭から主郭石垣         五の郭の石垣
千畳敷東尾根の堀切@
北西側尾根の堀切@
主郭と千畳敷の間の大堀切
主郭から大堀切越しに千畳敷
三の郭南側石垣
二の郭から主郭石垣と石段
主郭北側石垣
麓の現地案内板より
麓より遠望
主郭から出石の町の眺望
主郭下の石垣と山々眺望
此隅山城より城跡遠望
主郭北下より石垣
  
登城道中腹の堀切と土橋
中腹の郭
六の郭
五の郭
四の郭
三の郭の石垣
大堀切
千畳敷
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