長門 | 萩城 |
ファイルNo2942 |
江戸期毛利氏36万9千石の居城
@ はぎじょう |
道案内 | |||
山陽自動車道小郡インターから約16km先の美弥東JCT→十文字インンタを経由し小郡萩道路に入ります。約16km先絵堂インターで、そのまま国道490号線に入り約5km先で直線し県道32号線に入ります。約10km先の角力場の信号で左折し国道262号線に入ります。約5km先で斜め左の県道32号線に再び入ります。約8km先の信号が山陰自動車道萩インター入口の信号です。300m先で国道262号線と合流します。約2km先で橋本川を越え、約1.4km先の警察署前の信号で直進し国道191号線に入ります。1km先の弘法寺前(松本川に架かる萩橋手前100m)を左折します。1.5km先の信号で直進し県道295号線に入ります。約800m先で道なり左折で、300m先も萩城址入口の信号を右折します。200m先の右手が萩史料館前有料駐車場です。ここの左手は厚狭毛利家萩屋敷長屋(現存)です。駐車場から200mほどで本丸内堀前です。 |
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訪城備忘録 | |||
今は本丸周囲の石垣、水堀、詰めの丸の石垣、二の丸南門石垣、土塁などが往時を物語ります。 二の丸南門、東門、本丸門の桝形石垣が大きめの石を使って威厳を保ってますが、やや高さがひくいかなという印象です。また、本丸天守台が水堀を屈曲させた中に張り出した感じに見えます。天守台の石垣の反りが綺麗です。讃岐高松城の天守台もこんな感じだったかな。 平城の主要部背後に指月山があり、海に近い城と言う感じには見えないです。その指月山にある詰めの丸は別城郭のような構えです。他の城のように先に山頂の城郭が出来、後に麓に政庁用の郭が出来たのではなく、平地の主要郭を築城同時に作られたものですので、有事を意識した山頂部と言えます。(詰めの丸は別項で紹介します。) |
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慶長八年(1603年)に築城の場所として山口、三田尻、萩の三候補を幕府に願い出て、萩の許可がおり、慶長九年(1604年)に着工、慶長一三年(1608年)に完成したものです。 城地は指月山周囲を埋め立てし、本丸、二の丸、三の丸が置かれ、戦国期には吉見氏の城のあった指月山には詰めの丸が置かれました。初代、毛利秀就(後見で実質は毛利輝元)から一貫して長州藩の政庁でしたが、13代敬親が文久三年(1863年)に山口政事堂(山口城)を築き、政庁を移しました。 |
近くの城・関連の城:萩城要害(詰の丸)